説教要約
1)クリスチャンとは「イエス・キリストは私の救い主と告白する者」
人はどのようにしてキリストを信じ、キリストに従う者となるのでしょうか? いろんな導かれ方があると思いますが突然、一気にクリスチャンになった人はいないと思います。
振り返るならいろんな信仰者となる準備期間があり、いくつかの決断と選択を経て今があると思います。
弟子のペテロも同じような段階を経て信仰に導かれています。
ペテロが最初イエスに従ったのは、兄弟アンデレに誘われてのことでした。
ペテロは自分からイエスのところに行ったわけではありませんが、イエスに出会ってたちまちイエスの教えにひきつけられ、イエスを自分の師として付き従うようになりました。
そればかりでなく、イエスのなさった奇跡を何度も目の当たりにして、イエスをたんなる教師以上のお方として認めるようになりました。
そして「あなたは生ける神の御子キリストです。」という信仰の告白に至りました。
2)クリスチャンとは「十字架を負って従う者」
クリスチャンの歩みはイエス・キリストを救い主として告白し、洗礼を受けたら卒業ではありません。
むしろキリストの学校に入学するようなものです。
このキリストの学校で学ばなければならない最大のことは「十字架を負うこと」です。
「十字架を負う」とは一般に考えられているように、大きな重荷を背負って人生を歩むことではありません。
その意味は、前の節に書かれている「神のことを思わないで、人のことを思う」のとは逆の歩みをすることです。
つまり、人間的な成功を求めそれを誇ったり、人を喜ばせるために真理をまげてしまったり、人に受け入れられようとしてみことばを曖昧に扱ったりするのではなく、神のみこころが成るように願い、人間的な栄誉ではなく神の栄光を求め、真理の光を絶えず求め、神の真理を喜ぶことです。
「自分を捨てる」とは豊かさを捨て、質素に生きることでもなければ、自分を否定して生きることでもありません。
そんなことをすれば新たな律法主義となってしまいます。
たとえ恵まれた生活をしていても、その恵まれた生活を自分を楽しませるだけでなく、それを神のために役立てることが「十字架を負う」ことになるのです。
つまり神のことを人のことよりも思って生きるということが十字架を負って生きるということの意味することなのです。
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