メッセージ · 2024/04/07
礼拝とはイエス・キリストにお会いする時であり、主の備えてくださった十字架による罪の赦しと復活のいのちに活かされて新しい週を始める時です。主イエスは言われました。 「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28) たとえ、どんな重荷をかかえていても、礼拝に来るとき、わたしたちは、復活されたお方、いのちの主に出会い、疲れたからだと傷んだ心をいやしていただき、このお方のもとに重荷をおろすことができるのです。 イエスはご自分の約束に真実なお方であり、信仰をもってイエスに近づくとき、イエスはかならずそこにいてくださいます。ただどんなにイエスがわたしたちに近づいてくださっていても、すぐそばにいて下さっても、わたしたちの側に信仰がなければ、イエスに出会い、イエスを知ることはできません。 きょうの箇所の、エマオの村出身のふたりの弟子がそうでした。 復活されたイエスがふたりと一緒に歩き、語りかけておられるのに、このふたりは、それがイエスだと分からなかったのです。 しかし、彼らはイエス様の取り扱いを受け、最初から共にいて下さったの

メッセージ · 2024/03/31
「クリスチャンにとって最も大切なものは何でしょうか?」 それをパウロはコリント第一 15:3〜4 で「キリストは、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと」と言っています。 中でもキリストの復活が特に重要です。 キリストの復活は、それがなければキリスト教ではなく、それを信じていなければクリスチャンではないと言って良いほど大切なものです。 1)復活の事実・・キリストの復活が、クリスチャンの信仰にとって大切なのは、それが変わることのない事実だからです。 イエスが十字架に架けられた時、弟子たちは恐れ、自らの身を案じて逃げ、隠れ、徹底して人目を避けていました。 そのような弟子たちがペンテコステの祭りの真っ最中に、恐れるべき多くの人々に堂々とキリストはよみがえったと語り出したのです。 ユダヤ教の指導者であろうと、駐留のローマの執政官や兵士であろうとすぐに反論できたはずですが出来ませんでした。 弟子たちが遺体を隠していたと考える人もいますがそのような偽りを言えば益々自分達のいのちの危険性が増すだけですし、自らも虚しさに苛まれ

メッセージ · 2024/03/24
受難週に入りました。 イエス・キリストが十字架に架けられ、死なれます。 十字架という処刑の残虐さとむごたらしさについてはよく語られます。 ただ人間は人格的な存在ですので肉体的な痛みと同様に、心、魂が傷つき、深い痛みを受けます。 イエス・キリストの十字架は肉体のみならず、人間のすべての尊厳が奪われるような出来事だったのです。  ずっとイエスを始末したい(殺したい)と執拗に機会を伺っていたユダヤの指導者達は総督ピラトにイエスが自ら「ユダヤ人の王」と名乗っていることは神を冒涜することになり、死罪にあたると訴えました。 ピラトは自らユダヤの指導者の思惑で利用されることを嫌い、イエスが無罪であることを告げようとするのですがユダヤ人の圧倒的な圧力によって死罪を認める判決を出したのです。 イエスの十字架を真ん中に3本の十字架が立てられました。 イエスの頭上には「これはユダヤ人の王」と書かれた札が置かれました。 これはピラトの演出によるものでユダヤ人とイエスを嘲るものとなりました。 周りにいる民衆は憎しみと嘲りの目で十字架を見ています。 兵士たちは役得とばかりイエスの衣類をくじ引きでわけようとします

メッセージ · 2024/03/17
1)聖霊はキリストを思い起こされる(16:4、他 14:26など)  聖霊はイエス様が語られたことを思い起こさせます。それは、私たちの心をみことばと、主がなしてくださった恵みに向かわせます。 2)聖霊はいつも共にいてくださる(16:7、他 14:16など)  聖霊の内在は、神様がこれ以上ないほどに身近に私たちと共にいてくださるということです。聖なる御霊が、罪ある私たちにの内に住んでくださることは本来あり得ないことです。キリストの十字架がそれを可能にしました。 3)聖霊は真理を教えてくださる(16:13、他 14:16、14:26、15:26など)  真理の御霊は、私たちをすべての真理に導いてくださいます。弟子たちは、悲しみで心がいっぱいで、イエス様が語っていてくださった素晴らしい約束を信じることができませんでした。しかし聖霊が与えられる時、私たちは真理へと導かれます。父なる神様がおられ私を愛してくださっていること、主イエスの十字架が私たちのためであったこと、主イエスが死からよみがえられたこと、主イエスこそが救い主であること、その他にも私たちに与えられている将来の数々の約束。これらは

メッセージ · 2024/03/10
1)イエス・キリストによる新しい時代を生きる 3:21の「しかし今や」は、「しかし今や、全てにおいて新しいことが始まっている」ということを語っています。それまで語られていたことは人間の罪とそれに対する神の怒りでした。イエス・キリストによって神の義が示されたことによって、罪の下にあり、神の怒りの下にある私たち人間の世界に、今や決定的に新しいことが始まり、新しい時代が来ているのです。 2)忘れてはならない罪の現実 イエス・キリストによって「神の義」が立てられ、罪赦され、救われ、新しい時代を生きていると言いつつも人間の醜悪な罪の現実が記されていると救われている喜びは湧いてこないのではないかという声があるかもしれません。しかしそれはこの書を記したパウロの意図するところではありません。どこまでも自己中心的な人間は罪が赦されていることの恵みに慣れて、ついには過去が消え去ったかのようにまで思い、罪の赦しなど必要がないとまで思ってしまいます。ある意味、それが人間の罪がもっている性質なのです。 3)神は恵みとまことをもって人間を見ておられる 神の前にある真実な人間の姿はどのようなものでしょうか?「神は

メッセージ · 2024/03/03
1)クリスチャンとは「イエス・キリストは私の救い主と告白する者」 人はどのようにしてキリストを信じ、キリストに従う者となるのでしょうか? いろんな導かれ方があると思いますが突然、一気にクリスチャンになった人はいないと思います。 振り返るならいろんな信仰者となる準備期間があり、いくつかの決断と選択を経て今があると思います。 弟子のペテロも同じような段階を経て信仰に導かれています。 ペテロが最初イエスに従ったのは、兄弟アンデレに誘われてのことでした。 ペテロは自分からイエスのところに行ったわけではありませんが、イエスに出会ってたちまちイエスの教えにひきつけられ、イエスを自分の師として付き従うようになりました。 そればかりでなく、イエスのなさった奇跡を何度も目の当たりにして、イエスをたんなる教師以上のお方として認めるようになりました。 そして「あなたは生ける神の御子キリストです。」という信仰の告白に至りました。 2)クリスチャンとは「十字架を負って従う者」  クリスチャンの歩みはイエス・キリストを救い主として告白し、洗礼を受けたら卒業ではありません。 むしろキリストの学校に入学するようなもの

メッセージ · 2024/02/25
今年の受難節は2月14日から始まりました。 受難節の最初の日を「灰の水曜日」と呼びますが聖書で「灰」は三つのものを表しています。 第一は「悔い改め」です。 ユダヤの人々にとって灰と悔い改めとは切っても切れない関係にありました。 イエスの宣教の第一声は「時が満ち、神の国が近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)です。 イエスは神の国の到来を告げ、その神の国に入る道を教えました。 その道とは「悔い改めて…信じなさい」と言われているように「悔い改め」と「信仰」です。 神の国には「悔い改め」という門をくぐらなければ入ることができないからです。 悔い改めとは、神に背を向けて神から去っていた者が、「向きを変えて」神に立ち返ることです。 しかも、いったん「向きを変えた」なら、そのまま、まっすぐ神に向かうことが大切です。 第二に、「灰」はへりくだりのしるしです。 創世記2:7に「神である主は大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。 それで人は生きるものとなった」とあるように、人はもとは土のちりに過ぎないのです。 実際、人が死ねば、そのからだは灰となり、また土となるの

メッセージ · 2024/02/18
聖書において「神の国」はとても重要な意味を持っています。 イエス様は「時が満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言われて伝道の働きを始め、神の国について多くを語られました。 イエス様の宣教の中心は「神の国」についての教えであると言われています。  マタイ13章には、「天の御国(神の国)」についての7つのたとえが含まれています。 ①種まきのたとえ(1〜17節)、②麦と毒麦のたとえ(24〜30節)、③からし種のたとえ(31〜32節)、④パン種のたとえ(33〜35節)、⑤畑に隠された宝のたとえ(44節)、⑥高価な真珠のたとえ(45〜46節)⑦網いっぱいの魚のたとえ(47〜50節)の7つです。 これらは決して7つの別のたとえではなく、種まきから成長そして収穫へと向かう大きな流れを持つ、一揃(ひとそろ)いのたとえとなっています。  これら7つの「神の国」のたとえを通じて、私たちは世に対する神様の深い愛とご計画を教えられます。 神様が良いものとしてお造りなられたこの世界は、悪しき者の手によって罪に堕ち台無しにされてしまいました。 しかし、神様はこの世界を滅ぼされ

メッセージ · 2024/02/11
教会の暦では今週の水曜日2月14日からレントと呼ばれる「受難節」が始まります。レントという言葉は断食するということばが語源と言われています。イースターの前、日曜日を除く40日間、キリストが苦難を受けたことを思い起こし、十字架の苦しみと死を心に刻む期間です。特に受難節、最初の主日に、教会ではイエスの荒野での誘惑の記事、つまり今日の箇所が伝統的に読まれてきました。それは、このイエス・キリストの誘惑の出来事というのが、単なる誘惑や試練に打ち勝つというようなことではなく、私たちが生きているということの全体に関わること、特に、この世の苦しみや受難と深い関係があるからです。 「レント」の40日は主イエスが荒野で過ごされた40日に由来しています。荒野で主イエスは「食べ物」「力や権威」「安全(拠り所)」といった3つの試み、あるいは誘惑を受けられ、それに打ち勝たれました。そもそも悪魔の試み、誘惑自体虚偽に満ちたものです。例えば「国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう」と悪魔が言っても本来それらはすべて神なる主イエスのものです。ですから悪魔の試みにたいしては主イエスの御力をもってすれば容易く勝利できた

メッセージ · 2024/02/04
使徒の働き6章まではペンテコステの日に、聖霊が降って誕生した教会が、主イエス・キリストの福音を大胆に宣べ伝え、いろいろな妨害や迫害に遭っても、かえってそれによって確信を深められて伝道をしていったこと、その教会に多くの人々が加わっていき、またたく間に成長していったこと、そして教会は周囲の人々から尊敬を受け、好意を持たれていたということが語られています。 ところが6章に入ると、教会の中にある問題が起ってきたこと、もめ事が生じたことが語られています。 教会は、何の問題ももめ事も起らない天国のような所ではありません。 エルサレムに生まれた最初のキリスト教会からしてそうでした。 しかし使徒の働きにこのことが記されているのは大切なことを教えるためです。 その問題に良い対処がなされたので結果的には「こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。」使徒 6:7となりました。 教会の中で起こったもめ事とは配給をめぐって、2つのグループ間にあったいざこざでした。 使徒たちはこの配給の問題にたいして7人の奉仕者を立てることによって、うまく対処してゆきました。 ただ聖書

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