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3月26日「希望の涙」(マルコ14:66〜72)

説教要約

今日は前回ゲッセマネの園での祈りの後、イエス・キリストが捕らえられ大祭司カヤパの家に連れてこられた場面です。その様子を知ろうと弟子のペテロがついてくるわけですが結局、イエスと自分の関わりを強く否定し、最後は大泣きをして終わるという場面です。誰しも人生の中で涙を流します。涙にも嬉し涙、悔し涙、悲しくて流す涙など様々です。

ではここでペテロの流した涙は何を物語っているのでしょうか? 弟子と言っても不甲斐ない自分の姿が明らかになったことからの絶望の涙でしょうか? そうではありません。希望の涙です。どうしてそのようなことが言えるのでしょうか? それはこの出来事を通してペテロ自身薄々は気づいていた弱く罪深い現実の自分の姿を徹底的に見ることになります。しかし同時にそんな自分のことをすべて主イエスは知っていてくださったということが分かる機会ともなったからです。「知ってもらっていることは愛されていることです。」ありのままの自分を主イエスが知っていて下さるということは主イエスが愛していて下さっているということなのです。

今日の場面の前にすでに主イエスは十字架の受難と復活、さらには再臨のことまで語り、宣言されておられます。つまりペテロの否認は、この主イエスの歩みの中に置かれていますし、ペテロの涙は、この主イエスの十字架の苦しみと死とによって包まれているのです。そこにのみ、ペテロの救いがあります。ペテロは後悔して泣いたから救われたのではありません。主イエスの十字架と復活によってこそ、ペテロの涙は救いの喜びへと変えられたのです。

誰しも信仰者として立派な生涯を歩みたいと願いながらも現実には弱く、罪深く、ぶざまな自分の姿に悲しみ、涙することがあります。しかし、それは同時に主イエスの深い愛、十字架で表された無条件の愛を体験する時でもあるのです。絶望と悲しみの涙は希望と喜びの涙にもなるのです。

 


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メッセージ内容(2023年3月26日)
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