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3月12日「祈る者となる」(ルカ 22:39〜46)


説教要約

十字架の受難前の「ゲッセマネでの祈り」には重要で深い意味があります。この箇所から祈りについて学びたいと思います。

1.主イエスはなぜ「悲しみのあまり死ぬほどです」とまで祈りにおいて思われたのでしょうか? それは主イエスの弱さではありません。主はヒーローを目指されたのではありません。罪を犯す以外は私たちと全く同じ様に成られたということです。私たちが遭うすべての試練、苦しみに遭い、私たちと同じようにそれを苦しんでくださったからこそ、主イエスは私たちを苦しみの中で支え、そこから救い出すことができるのです。

2.主イエスは何を苦しまれたのでしょうか? 主イエスはこの前からご自分が苦しみに遭い、十字架上での死を覚悟しておられました。殉教ということの死でしたら主イエスはこれほどまでに苦しむことはありませんでした。主イエスは十字架の上でからだの死だけでなく、神のさばきをも受けられたのです。主イエスは十字架の上で、神から引き離され、見捨てられるという霊的な死も体験されたのです。「杯を取り去ってください」と祈られたのは、苦しみから逃れたいと思ったからではなく、肉体的に死ぬことが怖いわけでもなく聖なる神との交わりが断たれることを悲しむ思いから出たものなのです。

3.ゲッセマネの祈りは何を教えているのでしょうか? 今朝の箇所は、私たちが苦しみに立ち向かう方法について、いくつかのことを教えています。

1)苦しみに立ち向かう時に先ずすべきことは「祈ること」です。今朝の箇所の最初と最後は「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言うことばです。

2)苦しみに立ち向かうには他の人の祈りの支えが必要です。そのために正直に自分の弱さを出せるような信頼できる祈りの友が必要です。

3)祈りの目標は「しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」です。この祈りによって苦難の中を乗り越えて行くことができます。

 


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メッセージ内容(2023年3月12日)
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説教「祈る者となる」.pdf
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