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8月8日 「わたしたちの慰め」イザヤ 40:1〜5

「わたしたちの慰め」イザヤ 40:1〜5

 

国が滅ぼされて、遠い異国の地に捕らえ移されたイスラエルの民たちに対し て、神様は「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とお語りになりました。

現代の日本に住んでいる私たちには、国を失うという経験は、それほど現実 味のあることではないかもしれませんが、私たちも大きな災害などによって、 あるいは人生において深い悲しみを経験してきたのではないでしょうか。

本当に深い悲しみを経験したとき、人は言葉を失います。そういう方々を前 にして語りかける言葉を見つけられないことがあります。そのような時は、た だ寄り添うことだけが「慰め」となるともいわれます。大きく深い悲しみは、 その人の人格の深みにまで痛みを刻みます。大げさに言うならば、その人の存 在そのものを傷つけているようなものです。その痛みを和らげることができる のは、その傷を全身全霊で支えてくれる他者という人格の存在です。

神様が、イザヤを通して語られた慰めには、1労苦の終わりを告げる、2罪 の赦しが語られる、3主の栄光が現される、という 3 つの事が含まれています が、この箇所では「主の栄光が現される」ということが最も強調されています。 「主の栄光が現される」とは、「主が共にいてくださる」ということに他なり ません。人間にとっての究極の慰めは、主の御臨在です。

主の御臨在は、今は礼拝やキリスト者の交わりにうちに、終末に約束されて いる「神の国」の先取りとして現されています。私たちの究極の慰めである主 の御臨在は、やがて来る「神の国」において完全に現されます。

 


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