教会とはキリスト者の集まり、共同体です。
それをキリストのからだとも言います。
からだとして機能するためには物を倉庫にしまいこむようにただ置いてあるだけでは何も起きません。
どんなにきれいに整理しておいてあっても機能しません。
互いに繋がり、絆がありしかも一致している必要があります。
そうやって一致と絆を深めてゆくことは交わりと呼ばれます。
交わりとは一緒にお茶を飲んだり、おしゃべりすることだけではありません。
というより、それは交わりということのごく一部の意味です。
交わりの意味は分かちあう、分け合うということにその本質があります。
喜びを分かちあう、重荷を、分かち合う、嬉しいこと、悲しいことを互いに分け合う、それこそがコイノニアの本質です。
そしてそれは互いの働きかけがなければ動き出しません。
生まれつき自然にそのような交わりによる一致と絆が結べたら良いのですがそれが持てないでここまで私たちは歩んできています。
キリストの十字架によって救われた私たちはいろんな失敗や罪を犯しながらもキリストが与えて下さる恵みとまことによって悔い改め、神の赦しを得ながら少しづつ神との関係、人との関係が修正されてゆくのです。
その意味において教会は魂のリハビリの場と言えるかもしれません。
今日の箇所はパウロがピリピの教会員である二人の婦人の良くない関係を取り上げながらキリストによる一致を目指すように勧めています。
具体的な事柄の中で働いてくださる神の恵みとまことを受けて問題の解決と主にある成長があるのです。
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