新年を迎えました。
お正月には、お雑煮におせち、普段とは違うものを食べて、「新しさ」を感じるのですが、その新鮮な感覚も、日が経つにつれてだんだんとうすれていきます。
「新しい」といわれるものも、やがて古くなってゆきます。
旧約聖書伝道者の書にこんな言葉があります。
「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。
日の下には新しいものは一つもない。」(伝道1:9)「日の下に新しいものはない」などと言われると気持ちがそがれてしまいそうですが、ほんとうに「新しいもの」はどこにもないのでしょうか。
あるとすれば、それはどんなものなのでしょうか。
ほんとうの「新しさ」は、「目新しさ」とは違います。
昔から人は「目新しい」ものに飛びついてきました。
新約聖書は古代ギリシャのアテネの町の人々について「アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。」(使徒17:21)と書いています。
どのメーカーも毎年、車のモデルチェンジをしますし、ファッションも同じです。
流行はめまぐるしく変わり、「新しい」と言われたこともすぐに古くなります。
逆に古いと言われていたものが新しいなどと言われたりします。
時代の流行に乗ったからといって、それで「新しさ」を得ることができるわけではありませんし、外側を新しくしたとしても、わたしたちの内面が新しくなるわけではありません。
ですから結論としては地上には、ほんとうの「新しいものはない」ということのようですね。
今日の詩篇には「新しい歌を主に向かって歌え。」3節と書かれています。
ここで言われている新しい歌とはどのような歌のことを言うのでしょうか?あるいはどのようにすれば新しい歌を歌うことが出来るのでしょうか。
少しそのことについて聖書から考えたいと思います。
先ず詩篇は「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。」(詩篇33:1)
と賛美するのがふさわしい人は誰かということを言っています。
ここで「正しい者」「心の直ぐな人」といわれているのは、もとから「欠けの無い、高潔」な人物であるということではありません。
神の前には、ほんとうに正しく、欠けのない人などいないからです。
神の前に立つことができるのは、ただ、神の恵みによって、罪を赦され、欠けをおおわれた者だけです。
4節に「主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。」とあるように、「正しい者」「心の直ぐな人」というのは、イエス・キリストによって贖われ、神を畏れる生き方へと招き入れられた者のことを指します。
神のみことばを信じ、神のみわざに信頼している者ということなのです。
そのような者には「新しい歌」、神への賛美の歌が与えられることを言っています。
詩篇で賛美の歌が「新しい歌」といわれているのには、三つの意味があります。
第一は、新しい歌詞や新しい曲の歌という意味です。
人々の神への信仰が高まってきたときには、いつも新しい讃美歌が数多くつくられてきました。
宗教改革者マルチン・ルターは自ら作詞作曲し、讃美歌集を出版しました。
英国ではチャールズ・ウェスレーが数えきれないほどの新しい賛美を作りました。
その多くは今も盛んに歌われています。
第二は、「新しい心で歌う歌」であるということです。
新しく作られた讃美歌といえども、その内容は、決して「目新しい」もの、「耳新しい」ものではありません。
それは、神の創造や摂理、また、イエス・キリストの贖い、信仰の喜びという変わらない真理を歌っているもので、新しい讃美歌も、古くからの聖書の信仰を歌ったもので、内容的には変わりはしませんし、変ってはいけないものなのです。
教会で歌われる讃美歌は、神の愛や真実、イエス・キリストの救いなど信仰の真理を歌っているものですから、賛美を歌うことによって、信仰の真理を学ぶことができます。
しかし、イエス・キリストを信じるまでは、口では歌っていても、心では歌うことができない讃美歌も多くあると思います。
有名なアメージング・グレースも、その歌詞のように、自分が神の前にどうしようもない罪人であることを認め、ただイエス・キリストの赦しの恵みに頼る他ないことを知って、救いを受け入れてこそ、はじめて歌うことができる賛美だと思います。
讃美歌が多くの人に歌われるのは素晴らしいことです。
しかし、もっと素晴らしいのは、歌う人が、その賛美が歌っている真理を心から受け入れ、イエス・キリストの贖いを歌う「新しい歌」を、贖われた「新しい心」で歌うことです。
「古くからの讃美歌は言葉が難しくてわからない。
メロディーも単調でおもしろくない」といった声を時々、聞くことがあります。
確かに文語体で多くの賛美が書かれています。
しかしそんなに古い言葉は使われていませんから、辞書を引けばたいてい分かります。
歌詞の意味が分からないという場合、そこで歌われている信仰の真理が良く理解されていないことが多いのではと思います。
ほとんどの讃美歌には、そのもとになった聖書の箇所が示されていますから、聖書をよく学べば、讃美歌が使っている言葉のひとつひとつがどんなに意味深いものか分かるようになります。
古くからの讃美歌であっても、新しい心を持つなら、それを「新しい歌」として歌うことができるのです。
賛美の歌が「新しい歌」といわれる第三の意味は、それが「主に向かって」歌われる歌だからです。
わたしたちが神を知らないとき、わたしたちは、誰に向かって歌を歌ったのでしょうか。
たいていは自分に向かってだろうと思います。
つらいときやかなしいとき、こどものころ学校で習った歌や、若いときにみんなで歌った歌を歌って自分を励ましたり、慰めたりすることがよくあると思います。
次に、人に向かって歌う歌があります。
プロの歌手でなくても、歌が好きな人は人に聞いてもらいたいと願い、また、人に聞かせるために歌うことが多いでしょう。
しかし、信仰者は、それらに加えて「主に向かって」歌います。
わたしたちは、イエス・キリストを信じてはじめて、いままで漠然と「神」と呼んできたお方が、イエス・キリストの父なる神であり、また、わたしたちの父ともなってくださったことを知りました。
今まで、歌ってきた讃美歌が、この神に向かって歌うものであることを知りました。
天地万物を治めておられる父なる神、救い主であり御子なるキリストの神、聖霊なる神、つまり三位一体の神を賛美するのです。
讃美歌が、主に向かって歌う「新しい歌」となったのです。
何回か話したことがあるのですが私は高校2年生の時に母親同士が親しいNさんという当時大学一年生の方に教会に導かれました。
それから半年もしないうちに春休みにもたれた高校生キャンプに参加して信仰が与えられました。
導いてくれたNさんも大そう喜んでくださり、その方の家に行って聖書の手ほどきを受けることになりました。
Nさんの勉強部屋は屋根裏が倉庫になっていて半分を3面合板の壁で囲み真ん中に電気ごたつを置いた質素なものでした。
Nさんの家の家業は京都伏見稲荷神社関係の神具を作る仕事でしたので仕切りの無い横に目をやると小さな鳥居や神社、その神具がびっしりと置かれているのです。
天井倉庫の半分は灯りがあってこたつの上に聖書を置いて読んでいるのですがふと右を向くと薄暗がりに小さな鳥居やお社など神具は何百と山積み状態という何とも不思議な光景でした。
その方に聖書の手ほどきを受けるのですがその前にまず聖歌を2曲ぐらい賛美するのです。
私は教会の土曜日の高校生の集会に行っていたものの日曜日の礼拝は信仰を持ってからやっと行き始めましたから聖歌はほとんど知りませんし、歌うことが出来ません。
Nさんが頼りなのですがどういうわけかNさんは非常に頭脳優秀な方なのですが音楽、特に歌うことはさっぱりなのです。
つまり音痴なのです。
当然その人について歌おうと思っても何がメロディーかさっぱり分かりません。
ですから私たちが歌っている
のを第三者が見聞きしたら奇妙な光景であったと思います。
まさにこの世のものとは思えない?賛美だったと思います。
しかしです。
歌い終わって、祈って下さって、聖書を教えていただくといつも神様がそのみことばを私に語りかけてくださっているという実感がありました。
信仰によって本当につたない賛美が主に向かって歌うものとされていたと思います。
わたしたちはどんなに上手に歌えても、御使いや、聖徒たちの賛美に比べれば、「回らぬ舌」でしかありません。
しかし、どの賛美も、「主に向かう」なら、それは主が喜んで受け取ってくださる「賛美のいけにえ」(ヘブル13:15)となるのです。
いけにえとは奉仕ということです。
礼拝を初め、教会の様々な集会に出ることも主への奉仕ですし、賛美を捧げることも奉仕なのです。(うまくても下手でも!)
教会の全集会に参加すると一週間で礼拝(4)ゴスペルアワー(2)早天(1)祈祷会(3)金コイノニア(3)13曲年間約700回賛美することになります。
他の集会を含めたり、教会学校の先生達ならそれこそ1000回以上の賛美となると思います。
イエス・キリストの贖いによって、新しい者とされ、新しい心で、主に向かって歌う、そんな「新しい歌」を、この年も数多く歌い続け、主に捧げてまいりましょう。
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