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「順境の時も、逆境の時も」  (マルコの福音書 6章45〜52節)

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メッセージ内容(2017年11月12日)
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人生ものごとがうまくいっている、いわゆる順境の時もあれば、全くうまくいかなく試練と問題が拡がるばかりの逆境の時もあります。

また逆境ではないもののなかなか停滞気味と言いましょうか一生懸命やっている割に結果が出ない中で悶々としている時もあるかもしれません。

そのような中、どのように歩んでゆけば良いのでしょうか?さきほど読んでいただいた御言葉から見てゆきたいと思います。

45節に「それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。」とあります。

「それからすぐ」というのは、直前の、男だけで五千人の人々を五つのパンと二匹の魚で養われたという奇跡が行われたすぐ後でということでしょう。

イエス様は、弟子たちだけを舟に乗せてガリラヤ湖の向こう岸にあるベツサイダに向かわせ、御自身は群衆を解散させられました。

ここで、イエス様と弟子たちは別れたのです。

弟子たちは舟の上、イエス様は陸の上です。

ところが、弟子たちが乗っている舟が逆風に遭って、少しも前に進まない。

弟子たちが舟に乗ったのは夕方だと思われます。

それが、夜が明ける頃になっても、つまり12時間、夜通し舟を漕いでも、逆風にあおられて向こう岸に着くことが出来なかったというのです。

その間、イエスさまは何をしておられたのでしょうか。

46節「夕方になったころ、舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。

それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。」とあります。

 

マルコによる福音書の4章35節以下にも、同じような状況が記されています。

弟子たちとイエス様を乗せた舟が、やはりガリラヤ湖で嵐に遭ったのです。

この時は、イエス様は風を叱り、湖に向かって「黙れ。静まれ。」と言われました。

すると、嵐は静まってしまいました。

しかし、今回は弟子たちの乗った舟にイエス様はおられません。

そのことを強調するように、47節「舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。」と記されています。

弟子たちは湖の真ん中、イエス様は陸の上。

携帯電話もヘリコプターもありません。

この弟子たちとイエス様の隔たりは大きなものでした。

しかし、48節には「イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり」とあります。

いったい、イエス様はどのようにして弟子たちを「ご覧になった」のでしょうか。

夜明け前の暗闇の中だけれど、イエス様は見晴らしの良い山の上にいたので、湖を見渡すことが出来て、弟子たちの舟が逆風の中で立ち往生しているのが見えたということなのでしょうか。

そうではないでしょう。

イエス様は祈っておられたのです。

その祈りの中で、イエス様は弟子たちの状況を見たということではないかと思うのです。

弟子たちにはイエス様の姿は見えません。

しかし、イエス様は、いつでもどんな時でも、弟子たちの状況を祈りの中で覚えて、見てくださっているのです。

この近さを、聖書は告げているのです。

弟子たちには見えない。

しかし、イエス様には見えている。

私たちもそうなのです。

イエス様のことは見えない。

しかしそれは、イエス様が私たちから遠いということを意味していないのです。

イエス様は、私たち一人一人を、その祈りの中で見ておられるのです。

弟子たちが、イエス様に祈っていただいていたように、私たちもまた、イエス様に祈られ、見ていただいているのです。

私たちの一足一足の歩みは、このイエス様の祈りのまなざしの中にあるのです。

 

イエス様は、弟子たちの困り果てた状況をただ見ていただけではありませんでした。

48節に「夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。」とあります。

イエス様は湖の上を歩いて、弟子たちのところに来られたのです。

これは、弟子の誰も考えてもいないあり方でした。

イエス様は、いつも私たちの思いを超えたあり方で、その御姿を現し、救いの御業を行われます。

私たちが、こうなったら良いのにと思うようには、なかなかなりません。

しかし、イエス様は、神様は、私たちの期待以上、私たちが考えていなかったあり方で、大丈夫と言えるようにしてくださるのです。

出来事を起こしてくださるのです。この時もそうでした。

イエス様は、何と湖の上を歩くというあり方で、弟子たちのところに来られたのです。

 

しかしこの時、弟子たちは湖上を歩くイエス様を見て、幽霊だと思って、大声で叫んだのです。

「エーッ、うっそー」「ギャー!おばけー!」というような叫びだったかもしれません。

暗い湖の上を人が歩いているのを見れば、誰でもそう思うでしょう。

そして、イエス様が弟子たちの舟に乗り込まれると、風は静まりました。

弟子たちは非常に驚きました。

そして聖書は52節で「彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。」と告げるのです。

 

パンの出来事。

これは先週見ましたように、我々の常識、概念を超えてしまっているわけで、これはイエス様が、無から全世界を造られた全能の神様の独り子であることを示しているわけです。

しかし、弟子たちはそのことを理解していなかったのです。

大変な力を持った方だとは思ったでしょう。

これで、食べることは心配しなくて良いと思ったかもしれません。

しかし、イエス様がただ一人の神様の御子、まことの神であられるという理解には至らなかったというのです。

 

実は、この湖の上を歩いてこられるイエス様の出来事も、イエス様がまことの神であられるということを示しているのです。

それは二つのことから言えます。

第一に、48節「湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。」という所と、50節のイエス様が弟子たちと話された「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」という所です。

 

どうして、イエス様は湖の上を歩いて近づいてきたのに「そばを通り過ぎようとされた」のでしょうか。

通り過ぎて、先に何があるというのでしょう。

しかしこれは、旧約において、神様が自らの姿を現される時の現し方なのです。

一つの例を挙げますと、モーセが神様に栄光を示してくださいと求めた時、神様はモーセを岩の裂け目に入れて、栄光を通り過ぎさせました。

 

18すると、モーセは言った。

「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」

 

19主は仰せられた。

「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。

わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」

 

20また仰せられた。

「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

 

21また主は仰せられた。

「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。

 

22わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。

 

23わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」

 

出エジプト記33章18〜23節このように、イエス様が弟子たちの前を通り過ぎるというあり方は、イエス様がまことの神であることを示しているのです。

また、イエス様がここで「わたしだ。」と言われているのは、神様が御自身のことを言われる時の言い方です。

 

「わたしだ。」ギリシャ語で「エゴー、エイミ」というのは、神様がモーセに御自身の名を告げられた所で言われた、「わたしはあるという者だ。」出エジプト記3章14節をギリシャ語に置き換えたものなのです。

 

つまり、イエス様はここで、「わたしは神だ。アブラハム、イサク、ヤコブが拝んだ神、イスラエルをエジプトから導き出した神である。だから、安心しなさい。恐れることはない。」と言われているのです。

 

天地を造られたまことの神様であるイエス様が、共にいてくださる。

だから大丈夫なのです。

ここに私たちの平安の源があるのです。

 

しかし、そもそもこの時弟子たちが湖の上で逆風にあおられ、にっちもさっちもいかなかったのは、イエス様が舟に強いて乗せたからではないだろうか。

弟子たちはイエス様に舟に乗せられなかったら、そもそもこんな目に遭わなくて済んだのではないのではという疑問も起こってきます。

その通りかもしれません。

イスラエルの民もエジプトにいたままだったら、奴隷のままでいたのなら、苦しい出エジプトの旅をする必要はなかったのです。

このことは何を意味するのでしょうか。

それは、神様に召し出されて始まった私たちの信仰の歩みは、決して順風満帆であるわけではないということです。

そして、たとえ順風満帆でなくても、願ったように物事が進まなくとも、それでも私たちは大丈夫なのです。

 

それは、個々人の信仰の歩みにおいてもそうですし、昔から舟にたとえられるキリストの教会の歩みにおいても同じです。

逆風に吹かれたり、嵐に遭ったりするのです。

漕いでも漕いでも、ちっとも前に進まない。

もうダメだ。沈んでしまう。

そう思うような状況に追い込まれることもあるのです。

しかし、大丈夫なのです。

天と地を造られた全能の神様が、その全能の御力を以て、私たちを守り、支え、導いてくださるからです。

 

今年もあと残すところ一か月半程度となりました。

教会として、あるいは個々人の歩みはどうだったでしょうか? 船の航行に例えて、少し進んではまだ戻されている人がいるかもしれません。

あるいは舟は少しも前に進まず、逆風にさらされ続けているかもしれませんね。

しかし、沈みません。

 

「大丈夫!」です。

安心して悩んで良いのです。

それは父なる神様の御前にあって、イエス様が私たちのために執りなしの祈りをしてくださっているからです。

このイエス様の祈りの中に、私たちの一日一日はあるのです。

 

だから、大丈夫なのです。

私たちの抱えている問題や課題は、私たちの願ったような形ではなくても、必ず道が開かれます。

海の中にさえも道を開いてくださる神様です。

湖の上も歩いて来られるイエス様です。

そのイエス様が、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と告げておられるのです。

 

だから、私たちは大丈夫なのです。

敢えて言うなら私たちはたとえ死んだとしても、大丈夫なのです。

復活の命が備えられているからです。

ですから、この週もまた、安心して神の国と神の義を求めて歩んでまいりましょう。

必要なものは主が備えてくださいます。