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8月9日 「キリストのための苦しみ」(コロサイ1章23~24節)

私たちと共に苦しんでくださる神、このお方を、私たちはイエス・キリストに見ることができます。

神の御子は人となって、人が味わうすべての苦しみ、痛み、悲しみを味わってくださいました。

キリストは私たちのために苦しんでくださいました。

そこに「苦しみの問題」への回答があるのですが、聖書は同時に、キリストを信じる者たちに、キリストのために苦しむことも教えています。

パウロが「あなたがたのために受ける苦しみ」というのは、彼が受けた教会のための労苦のことを言っています。

人々が霊的に成長するため、また、そうした人々によって教会がキリストのからだとして成長していくためには大きな苦しみが伴うのです。

 

パウロが「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」と言ったのは、キリストの十字架での苦しみが不十分であったという意味ではありません。

あのマザー・テレサが苦しむ人々の姿の中にキリストを見、キリストの姿の中に苦しむ人々を見たように教会で苦しんでいる兄弟姉妹を見る時に共に苦しんでおられるキリストを見たのです。

そしてパウロは自らが教会のために苦しむことは喜びでもあると言います。

キリストの苦しみの欠けたところとは、具体的には、教会に欠けているもの、また教会が必要としているとも言えます。

もしそれが祈りであるなら、忍耐を尽くして祈ることによって欠けを満たしたいと思います。

それがみことばであるなら、ひとりびとりがキリストのことばを豊かに住まわせるために、何ができるかを考えて実行したいと思います。

教会の奉仕も必要とされています。

神の国はいつも求人難です。

ただし、教会の必要を覚えた奉仕であるなら最高です。

 


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メッセージ内容(2020年8月9日)
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