· 

5月31日 「ペンテコステ〜私が変わる日〜」(使徒2章1〜8節)

今日は教会暦、教会のカレンダーから言えばペンテコステ(聖霊降臨日)と呼ばれる日です。

ペンテコステとは50番目の日という意味でもともとはユダヤ教の過越しの祭の翌日から数えて50番目ということです。

しかし、過越しの祭の日の翌日つまり日曜日の朝、イエス・キリストが復活されました。

主イエス・キリストの十字架と復活の時期はうまい具合に過ぎ越しの祭り時に重なりましたがこれは神様のご計画されたことです。

過ぎ越しの祭はユダヤ人にとって、最大に救いを祝う出来事です。

昔、エジプトに居た時に神様がエジプトに罰を下される時に自分の家の門の柱や鴨居に小羊の血を塗り付けておいてある家は過ぎ越す、見過ごすことをユダヤ人に教えられて難を逃れることができた。

そのようなことから救い出されたことの記念として祝われます。

過ぎ越しの祭りと同じ時期に主イエス・キリストは十字架に架かられ、その流された血、捧げられたいのちによって私たちの罪が赦される。

同じ血による赦しが示されているわけです。

しかも過ぎ越しの日に十字架にかけられることはすでに預言されていたことでした。

神様のご計画に寸分の狂いもありません。

その後イエス・キリストは40日間弟子たちに現れ、天に帰られました。

それから、10日経って約束の聖霊が降りました。

つまり復活後、50日目に聖霊が降ったということでペンテコステとは聖霊降臨日と呼ばれます。

その聖霊が降った時の様子が今日読んでいただいたところに書かれています。

ペンテコステの日に聖霊は何をしてくださったのでしようか。

聖霊は、

1)弟子たちをつくりかえ、

2)教会を生み出し、

3)そして世界を変えました。

そのことを今日は見てゆきたいと思います。

まず、最初に弟子たちに起こった変化から見ていきましょう。

聖霊は弟子たちを以前とは全く違う者に造り替えてくださったのです。

聖霊は最初にそれまで恐怖のあまり逃げ隠れしていた弟子たちが、イエスを十字架につけたユダヤの指導者たちを前にして、「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」使徒2:36と語っています。

彼らは恐れを知らない者となりました。

居直ったわけでも、興奮のあまり分けの分からないことを叫んでいるのでもありません。

聖霊によって、勇気と大胆さを与えられたのです。

 

そればかりでなく、聖霊によって、弟子たちは知恵に満たされました。

弟子たちが、それぞれ自分たちの国の言葉で話しているを見た人々は「いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。

それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。」使徒2:7,8と言いました。

 

「ガリラヤの人」という言葉には、軽蔑の意味があります。

都エルサレムから遠く離れ、サマリヤ人やカナン人の土地と隣接した「ガリラヤ」は田舎で貧しく、無学な人々がいるところと思われていたのです。

しかし、弟子たちは、イエス・キリストが救い主であることを理路整然と語り出しました。

それはユダヤの宗教指導者たちも反論できないほどでした。

宗教指導者達はプライドがありましたから馬鹿にしながら何も言い返すことが出来なかったのです。

 

さらに、聖霊は、弟子たちの品性を高めました。

どんなに大胆で、知恵があっても、それだけでは、人々にイエス・キリストを証しすることはできません。

大胆であっても誠実さがなければ、知恵があっても謙遜さがなければ、それは本物とはいえません。

聖霊は弟子たちをキリストの似姿へとつくりかえました。

弟子たちは、迫害を受けましたが、その人格のゆえに、同時に人々から大きな尊敬を勝ち取っています。

 

最初の殉教者となったステパノは「恵みと力とに満ちて」いて、その顔は天使の顔のように見えた(使徒6:8,15)といわれています。

「ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。」聖霊は、力と知恵と品格を与えてくれます。

 

聖霊は今も、信じるわたしたちに、同じように働きかけてくださっています。

聖書は約束しています。

「悔い改めなさい。

そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。

そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38)ここでは、「賜物としての聖霊」という意味です。

信じて、悔い改め、バプテスマを受け、キリストに従う者に、神がくださるプレゼントは、「聖霊」そのものです。

賜物ですから神から与えられるものです。

わたしたちの救いのために御子をくださった神は、救われた者が、救われた者としての使命と目的を果たすために、聖霊をくださるのです。

神は、神ご自身を与えてくださいました。

これより大きな賜物はありません。

他人と過去は変えようが無いとはよく言われることですね。

よく言われながらも、私たちは相当な時間とエネルギーをそこに費やします。

つまり他人を変えようとしたり、いつも過去を悔やみ、過去にとらわれてしまいます。

ひょっとしたら40年、50年ぐらいかけたら他人は少し変わるかもしれませんがそれは割に合わない生き方になります。

どうしたら良いのでしょうか?他人と過去が変わらないのであれば、自分と将来は変わる可能性があるということです。

ところがそのことを少し理解すると次の課題が出てきます。

それは自分が変わると言っても自分で自分を変えることはできないということです。

それが出来るのは聖霊なる神だけです。

もし私たちが変えられたいと願うとき、聖霊はわたしたちを内側から変えてくださいます。

わたしたちは自分のうちにそんなに大きなお方を持っていることを悟っているでしょうか。

そのことを悟り、いつも聖霊により頼みたいと思います。

聖霊の働きの第一は私が変えられるということです。

次第二に、聖霊は教会を生み出しました。

教会とは何でしょう。

それは、たんにイエスを尊敬する人、キリスト教が好きな人の集まりではありません。

教会は、人々が集まって作ったものではありません。

それは、神のご計画の中にありました。

 

イエスは「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」マタイ16:18と言われました。

また、使徒20:28には「聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、神が御子の血であがない取られた神の教会」という言葉があります。

イエス・キリストは教会を建てるために世に来られ、そのために、十字架で血を流し、死んでくださったのです。

そして、天に帰られたイエス・キリストは聖霊を送り、ペンテコステの日に教会を生み出してくださいました。

教会はキリストのからだであり、主イエスを信じる者が集められた場であるわけですが、同時にそのからだはキリストを頭とするからだであるということです。

人間の体に譬えるなら脳か心臓と言えます。

 

聖霊は教会を生み出しただけでなく、今に至るまで教会を守り、育て、導いておられます。

使徒9:31にこう書かれています。

「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」わたしたちも、聖霊のはげまし、慰めを受けて、平安を味わいたいと思います。

信仰の基礎をしっかり築きたいと思います。

なによりも、「主をおそれる」思いを持ちたいと思います。

わたしたちがいくらイエス・キリストのことを語ったとしても、もし、わたしたち自身が主イエスを愛し、敬い、主イエスを第一にしていなかったら、わたしたちの語ることは説得力を持ちません。

人々は、わたしたちの語る言葉だけでなく、わたしたちの主に対する態度を見ているのです。

 

最後に、聖霊がされたこと、それは聖霊が世界を変えたということです。

何によってでしょうか。

福音によってです。

誰によってでしょうか。

聖霊に満たされた人々によってです。

 

当時の世界は、ローマ帝国によって支配されていました。

ローマ帝国は、アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸にまたがる大帝国でした。

ローマ皇帝は、世界に平和をもたらした神々の子と呼ばれ、その平和は「ローマの平和」といわました。

しかし、実際のところ、世界を支配していたのは、平和ではなく、戦争と恐怖でした。

戦争に負けた国はローマの一部、または属国となり、奴隷とされ、皇帝への礼拝が強要されました。

ローマに反逆する者には容赦のない刑罰が待っていました。

 

イエスの時代のイスラエルも、ローマ総督に治められていたシリア州の一部で、人々はローマへの税を取り立てられていました。

「使徒信条」が「主は...ポンテオ・ピラトのもとで、苦しみを受け、十字架につけられ...」と言っているように、わたしたちの主イエスもまた、ローマの権力によって葬り去られたのです。

 

しかし、主はよみがえられました。

死の力にさえ勝利された主が、地上のローマの権力に勝利されないわけはありません。

ローマ皇帝は、その総督が主イエスを十字架につけたように、クリスチャンを迫害し、主を信じる者たちを十字架につけました。

しかし、そんな中でも福音はローマ帝国の隅々にまで伝えられていきました。

福音は皇帝に近い兵士や皇帝の側近の間にも伝えられました。

 

初代教会の指導者のひとりが皇帝に宛てた手紙の中で、「わたしたちは、国家のために祈り、誰をも傷つけはしません。

しかし、覚えていてください。

皇帝よ、あなたの身近な人々の間にも多くのクリスチャンがいるのです」と書いています。

313年、皇帝コンスタンティスの命により、迫害は終わりました。

あの残酷な十字架刑は廃止されました。

キリスト教は国教となり拡がります。

その後、教会はローマ帝国が滅びても、滅びることなく、ローマ帝国の領土をこえて、福音をひろげていきました。

教会は、武力によってでも、暴力によってでもなく、愛の言葉によって、この世の大帝国に勝利したのです。

偽りの平和、一時的な平和ではなく、イエス・キリストによる、ほんとうの、なくなることのない平和をうち立てたのです。

 

ペンテコステの日に、弟子たちが様々な国の言葉で語リ出したのは、福音が全世界のあらゆる人々に伝えられることを表わしています。

使徒2:9-11「私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。

またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」に聖霊の働きによっていろんな国のことばが語られたとあります。

残念ながらこには、英語や日本語はありませんでした。

しかし、主は、福音が英語でも日本語でも伝えられているこの日のことを、すでに知っておられました。

わたしたちにも福音が届くようにと、歴史を導いてくださったのです。

今日も、聖霊に満たされた人たちが神の言葉を語り、証ししています。

ペンテコステは続いているのです。

 

わたしたちも聖霊に満たされ、聖霊によって変えられるなら、世界を変えることができます。

わたしたちの身近な人々の人生が変わり、家庭が変わり、地域が変わり、社会が変わり、国が変わり、世界が変わるのです。

 

世界を変えたのが、「ガリラヤ」の人々であったことを覚えていましょう。

つまり取るに足りないごく普通の人であったということです。

神が用いてくださるのは、才能のある人、地位のある人、財産のある人とはかぎりません。

もちろんそういうものがあればあったで良い事でしょう。

何も意地になって神が用いるのは苦労した人、あるいは貧しい中で頑張った人しかだめだということではありません。

そうしたものがあろうが、なかろうと、神にとっては問題ではありません。

神が求めておられるのは「わたしを変えてください」と、聖霊に身を任せる人です。

神が求めておられるのは非凡な信仰を持っている平凡な人なのです。

 

時々、先生、教会はこうあるべきではないでしょうか?とか、何故教会はそうなんでしょうか?などと聞くことがあります。

しかしその場合、教会とは誰のことを言っておられるのでしょうか?今日、共に見てきましたように聖霊は先ず、信仰者一人一人に働きかけられます。

そして信仰者が変えられたら教会は変わります。

教会が変えられたら、教会の外のこと、家族から世界宣教に至るまで変えられてゆきます。

 

ペンテコステは弟子たちが変えられ、教会が始まり、世界が福音によって変えられていった日です。

この日に、わたしたちも、もういちど新しい決心をもって、聖霊に導かれて前進したいと思います。

  


ダウンロード
メッセージ内容(2020年5月31日)
上記の本文と同様のPDFデータです。ご覧になりやすい方でお読みください。
20200531ペンテコステ~私が変わる日~.pdf
PDFファイル 229.1 KB

メッセージの音声をお聞きになりたい方はブルーのアイコンをクリックしてください。

容量の軽いデータでお聞きいただけます。