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4月12日 「復活の希望に生きる」(コリント第一 15:50〜58)

「復活の希望に生きる」(コリント第一 15:50〜58)

 

今日はイースター、キリストの復活を喜び祝う日です。

イースターの三日前に主イエス・キリストは、私たちのために、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。

死ぬべき罪人である私たちの身代わりとして死んで下さったのです。

そして神様が終わりの日に私たちにも新しい命とからだを与えて下さる、その初穂、先駆けとして、主イエスは復活されました。

つまり私たちのために主イエスは復活して下さったのです。

主イエスの復活によって、私たちも、いつかは迎えるこの肉体の死を越えた彼方に、新しい命、神様の恵みによって活かされる新しいからだを与えられるという希望に生きることができるようになりました。

この復活の希望はどのように実現されていくのか、復活のからだとはどのようなものか、ということについてパウロは、これまで15章のこれまでの所で、丁寧に説明をしてきました。

ただ幾らことばを尽くして、説明しても復活のからだは、今の私たちのこの肉のからだとは違う、霊のからだです。

霊のからだというのは、霊によって出来ているからだということではなくて、聖霊によって活かされるからだということです。

今私たちが生きているこのからだは、外側も内側も神様が与えて下さった自然の命によって生かされています。

例えば私たちの栄養となる食料が備えられています。

現代は加工された食べ物が多いですがそれも材料は神様が創造された自然から生み出されたものです。

それらの食べ物を食べ、からだの中でその食べ物が消化され、栄養に変えられて私たちのからだとしての成長と維持のために用いられます。

私たちのからだ自体もそのように造られています。

これが創造主なる神が備え、与えてくださった自然の命によって生きているということです。

ですから食べなくなったらからだは動かなくなります。

今日、学んでいます私たちに約束されている復活は、その自然の命のからだがもう一度息を吹き返すことではありません。

どんなに長生きしたとしても自然の命のからだはやがて終わりを迎えますし、繰り返されることはありません。

しかし、復活とは自然の命によって生きていた我々に神が聖霊によって生きる新しいからだ、霊のからだを与えて下さるということです。

それがどんなからだであるかということを、私たちは今のこの自然の命のからだから想像することはできません。

パウロは「私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。」49節と言います。

パウロが教えていることは霊のからだについて具体的に詳しくは分からないけれども、現在、生かされているからだがはっきりとかたちがあり、区別がわるわけであるから、霊のからだもはっきりとかたちがあるということです。

何かわけが分からないような、誰かも分からないような漠然としたものではないとパウロは断言します。

 

さらにパウロは50節でこう言っています。

「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」。

「血肉」「朽ちるもの」それが私たちの今のこのからだです。

「神の国」とは、神様の恵みによるご支配ということです。

それが「朽ちないもの」と言い変えられています。

それを「相続する」(受け継ぐ)というのは、神様の恵みによるご支配の下に、朽ちることのない命を生きる者とされることです。

血肉、朽ちるものは、神の国、朽ちないものを受け継ぐことができません。

私たちは、今のこのからだのままで、この人生において、救いの完成を得ることはできないのです。

自分の人生は平穏無事に過ぎていくことが神の救い、神の守りであるかのように思ってしまいがちです。

しかし私たちの人生は、ひとたび何かが起こればたちまち平穏を失います。

この人生における「幸せな生活」という救いは、いとも簡単に失われてしまうのです。

また私たちは、世界の各地で地震や津波や台風などの災害が起こり、そのたびに何千人の人々が死んでいくことを見ています。

今、まさに新型コロナウイルスよる感染の恐怖の中を過ごしているわけですが、このようなことを見ると、「神様がおられるなら何故こんなことが起こるのか」「神様の救いなどあるのだろうか」と先ず思います。

しかしこれらのことはまさに、血肉をもって生きる私たちのこの人生、今のこの世界の延長上に神の国は無いということを示しているのではないでしょうか。

 

そのことを語った上でパウロは51節で「私はあなたがたに奥義を告げましょう。」と言います。

「奥義」というのは「隠されたこと、秘密」という意味の言葉です。

私たちの眼に通常隠されており、信仰によってしか分からない秘密を明らかにしますというのです。

その秘密とは、「私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられる」ということです。

「眠る」と「変えられる」とは何が違うのでしょうか?「眠る」というのは今の状態の延長上に人生を考えていることです。

昨日、眠りについて今朝目が覚めた。

こうやって自分の人生が続いています。

「変えられる」というのは今とは違う状態になることであり、次元が違うのです。

血肉、朽ちるものであり、それゆえに神の国を受け継ぐことができない私たちが、霊のからだへ、朽ちないものへと変えられるのです。

そして神の国を受け継ぐ者とされるのです。

そのことはいつ、どのようにして起こるのか。

52節にこうあります。

「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」。

これが、終わりの日の死者の復活です。

世の終わりにキリストがもう一度来られるその時に、私たちは復活し、朽ちないもの、神の国を受け継ぐ者へと変えられるのです。

このことこそ、パウロが告げている奥義、信仰によってしか分からない秘密です。

そしてそこにこそ、神様による救いの完成があるのです。

 

つまり復活によって霊のからだとされ、神の国を受け継ぐ者となりますから、復活は必要不可欠なものです。

復活は救いの完成であり、そこから永遠に神と共に歩む喜びの日々が続いてゆくのです。

復活は、神様の救いの恵みの最後のつけ足しではありません。

救いの恵みがもう十分に与えられた後、最後に、言わばおまけとして復活が与えられるのではないのです。

私たちは、復活において新しくされ、霊のからだ、朽ちないものへと変えられることなしには、神の国を受け継ぐことができないのです。

ですから復活の希望に生きることのない信仰は、この世の生活の中で、どんなに素晴らしい神の恵みと祝福を体験したとしてもそれは神の恵みの影を、あるいはその兆しを少し経験しただけのことであって、結局その先は朽ちるものである血肉の中に埋没して、それを見失ってしまうということになります。

 

このように、復活を見つめることは、私たちの信仰において欠かすことのできない大事なことです。

しかしパウロがここで語っているのは、復活が大事なのだから復活できるように努力しなさい、ということではありません。

復活は、努力目標ではなくて奥義です。隠された真理です。

言い換えればそれは、既に約束されている神様の意志、み心なのです。

私たちはこの神様のご意志を、信仰によってしか知ることができません。

それゆえにこの復活という奥義を理解できない、信じられない、という人々も当然出てきます。

それは当時も今も同じです。

昔は科学が発達していなかったから復活といった教えも受け入れられたかもしれないが、今日この科学の発達した時代に復活などと言われてもそれを信じることは難しい、と思う人がいるとしたら、それは違います。

二千年前も、復活はやはり「奥義、隠されたこと」であり、「信仰によってしか分からない秘密」だったのです。

 

しかしこの復活という奥義、信仰によってのみ分かる神様の恵みに眼が開かれるならば、私たちは大いなる希望に支えられて生きることができます。

その希望は53節では、「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」と言い表されています。

私たちの今のこのからだ、この世の人生は、朽ちるべきもの、死ぬべきものです。

何十年かの人生を、充実した幸せなものとして生きたとしても、あるいは全く不遇の中を、苦しみつつ生きたとしても、最後に待っているのは死です。

しかしこの隠された神の恵みのご意志を知るならば、私たちは、この地上における何十年かの人生が私たちの歩みの全てではないこと、肉体の死を越えた彼方に、神様の恵みによって生かされる新しい、朽ちることのない、死ぬことのない命とからだが与えられることを示されるのです。

そうしますと私たちの今の地上の人生は、この朽ちることのない、死ぬことのない新しい歩みに向けての備えの時となるのです。

その時私たちは、この世の人生における喜び、豊かさ、名誉、名声に捕われることがなくなります。

それが私の人生のすべてではないと思えるのです。

またたとえ喜びや誉れや豊かさを得たとしても、今度はそれを失うことへの恐れに捕えられていきます。

しかしそれらをどんなに守ろうとしても、死においてはそれらの全てが奪い去られてしまうのです。

ですからこの世の人生における成功を求めて生きる人は、後がありませんから、いつも死を恐れており、死については極力考えないで生きようとするのです。

しかし復活の希望に生きる者は、この世における喜びや誉れや豊かさ、それらは悪いものでは決してないのですが、やがて過ぎゆくもの、朽ちていくものであることを受け止め、そしてそれらがたとえ全て失われてもなお、神の恵みが自分を捕え、支えていることを信じて生きることができるのです。

 

これらのことを一言で言うならば、復活の希望に生きる者は、死に対する勝利を与えられているということです。

この世の人生しか見つめることができない者にとっては、死は、その人の人生をめちゃめちゃに破壊する不気味な力です。

そして誰も死から逃れることができないのですから、私たちは皆この不気味な力の支配下にあるということになります。

さらに言うなら人生は、死までの執行猶予期間でしかないことになるのです。

しかし復活の希望に生きる者は、死の力もまた神様のご支配の下にあることを信じています。

神様は主イエス・キリストを捕えた死の力を滅ぼして、復活させ、新しい命とからだを与えて下さいました。

つまり神様は死の力に既に勝利して、それをご自分の支配下に置いておられるのです。

同じように私たちを支配する死の力にも勝利して、新しい命とからだを与えて下さるのです。

この信仰に生きるところでは、死はもはや私たちを支配する不気味な力ではありません。

人生は死から与えられた執行猶予期間ではなくて、神様が命を与え、生かしてくださっている恵みの期間なのです。

復活の希望に生きる者の人生は、やがて神の国の祝宴に入るまでの待合室にいるようなものとも言えます。

 

さてパウロはこの15章を通してキリストの復活とキリストを信じる者に与えられる復活の素晴らしい奥義を語りながら、終わりの部分で「死よ。

おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」55節と言います。

これは旧約聖書ホセア書からの引用ですが、まさに、パウロが力を込めて言い放っている姿が浮かんでくるようです。

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」

続けてパウロは56節で「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」と語ります。

「死のとげは罪であり」という言葉に、生れつきの私たちにとっての死の意味が示されています。

死は私たちに痛みを与え、苦しみを与えるとげなのです。

そして死がとげであるのは、私たちの罪のゆえです。

「罪の力は律法です。」とは律法によって益々、罪が明らかにされるということです。

神様に背き、自分が主人となって生きようとする罪によって、私たちと神様との関係は損なわれ、疎遠になってしまっています。

それゆえに、死は、私たちの罪に対する神様の怒りと裁きを示す、不気味で、恐しい力と感じられるのです。

主イエス・キリストは、その私たちの罪を背負って、十字架にかかって死んで下さいました。

神の独り子である方が、私たちと神様との関係を損ない、隔てている罪をご自分の身に引き受けて死んで下さったのです。

この主イエスの十字架の死によって、神様は私たちの罪を赦して下さいました。

主イエスの十字架によるこの罪の赦しを信じる者にとっては、神様はもはや疎遠な、怒りと裁きの神ではなく、近い、親しい、愛に満ちたお方となるのです。

主イエス・キリストの十字架によって、死の根本的なとげは、既に抜き去られているのです。

勿論主イエスを信じる者にとっても、人生の終わりである死は、苦しみ、恐れ、不安をもたらすものです。

死のとげはなお残っています。

それが完全になくなるのが、終わりの日の復活の時です。

復活は、主イエス・キリストによって既に実現している、死のとげの無力化、「死は勝利にのまれた」54節という神様の恵みの勝利の完成なのです。

57節に「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」とあるのは、この終わりの日の勝利を見つめて語られているのです。

この世においてどんな風に過ごそうとも、そして自分がどんな風に死を迎えようともキリストの復活によって勝利は明らかなのです。

 

この復活の希望、神様の恵みによる死に対する勝利の希望に生きる時、私たちのこの世の生活は変わります。

最後の58節はそのことを語っています。

「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。

あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」それぞれが自分の置かれた場で、しっかりと神様に仕え、神様が喜びたもう働きを熱心にしていこうと勧められています。

復活の希望に生きる所にはそのような人生が与えられるのです。

 

血肉をもって生きるこの人生における私たちの働きは、どこまでいっても、どんなに努力しても、不完全で、罪の影響を受け、欠けのあるものです。

しかしこの人生において私たちがする苦労の中で、神の国へと、つまり朽ちることのない、死ぬことのない復活の命へとつながっていくことがただ一つだけあるのです。

それは、「主に結ばれて」する苦労です。

つまりキリストのからだである教会につながる一人となり、主の業に励むことです。

主イエス・キリストの父なる神様を信じ、礼拝し、主に仕えて生きることです。

そこにも確かに苦労はあります。

しかしそこにおける苦労は、決して無駄になってしまうことはないのです。

今の状況の中であなたはどのような主の業に励むことが出来るでしょうか?何も出来ないことはありません。

祈ること出来ます。賛美することができます。置かれた場で礼拝することが出来ます。

今週も主イエス・キリストを見上げて歩んでまいりましょう。

 


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