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1月13日 「十字架の愛と死を見つめて」(マルコ15:33~41)

 本日の箇所は昨年11月に、待降節、降誕節を前に一旦止めていたマルコ福音書からの説教の継続箇所となっています。

主イエス・キリストが十字架に架けられ、死なれる時の様子が記されています。

 

 キリスト者にとって信仰の中心は、主イエス・キリストの十字架です。

キリスト教信仰とは十字架のみ私たちの救いであることを信じて生きることです。

十字架が救いであるということは十字架について死なれたお方が神の子、すなわち神ご自身であり、人間の罪を担った救い主が死なれたということです。

どんなにその名が知られていようと、どんなに残虐な刑罰によって死なれようと、どんなに人がイエス・キリストは偉大な宗教的指導者であり、苦しみを受けて死なれたことを知っていても、だから主イエスは救い主ということにはなりません。

主イエスは神と等しい方であり、そのお方が聖書に示された預言の通り、この世に来られ、預言の通り十字架で悲惨な死を遂げられた、そして預言の通り復活されたことの故に救い主として信じられるということです。

もし、主イエスが神の子であると信じられないならば、十字架は救いではなく悲しむべき事件ということになります。

 

主イエスが神であるという信仰は、主イエスの十字架の出来事が示される中で、つまり、神の子が死んだという出来事の中で示されるのです。

十字架は、信仰の中心であると共に、信仰の出発点でもあります。

クリスチャンとは「この方はまことに神の子であった」との告白と共に「このお方を十字架に付けたのは他でもない私の罪であり、その私の罪を赦すために主イエスは死んでくださった」という悔い改めと自覚を持って歩む人のことです。

 

十字架における主イエスの死に、神の愛が最高に示されています。


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メッセージ内容(2018年1月13日)
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十字架の愛と死を見つめて.pdf
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