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「まことの謙遜は主への感謝から」(マルコの福音書 10:35〜45)

多くの人が「謙遜」という言葉が好きですし、「謙遜な人」を好みます。

しかし、自分が謙遜になることには躊躇したり戸惑ったりします。

「私は謙遜な人になりたい」などと言うと、それだけで傲慢な人間に思われてしまうのではと不安に思う人もいると思います。

しかし聖書は「みな互いに謙遜を身に着けなさい。

神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

」(ペテロ第一5:5)と言って、私たちに謙遜であるようにと教えています。

聖書的に言えば「謙遜」は他人の人物評価する時に使うことばというよりも自分自身が身につけなければならないものと言えます。

ではどのようにしたら「謙遜」を身につけることが出来るのでしょうか?今日の箇所からキリストご自身が謙遜について教えていることを学びたいと思います。

 

謙遜の訓練は「キリストを知ること」から始まります。

将来の地位を要求するヤコブとヨハネに、イエスは「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。

」と言われました。

イエスは最後の晩餐の時ピリポにも「こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。

」(ヨハネ14:9)と言われました。

私たちは聖書のあの箇所を知っている、教会のあのこと、このことを知っているというのではなく、本当に主を知っているでしょうか。

主のみ心を知っているでしょうか。

そして、主のことばに素直に聞き従っているでしょうか。

そのように主を知ることなしには、本当の意味で謙遜を身に着けることはできないのです。

 

「主を知る」ことは主のして下さったこと、つまり「十字架の贖いのわざを知る」ことにつながり、神の愛を知ることとなります。

キリストの愛に触れるなら仕えることが喜びとなり、謙遜が身につくことになるのです。