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「主はよみがえられた」(ルカの福音書 24章1〜11節)

「キリストの復活」は、はじめて聖書の教えを聞く人を驚かせ、またつまずかせるものです。

しかしそれは神様がその人を信仰に導こうとしておられる一つのしるしだと思うのです。

なぜかというと、もし何の抵抗もなくすんなり信じるとするなら「それがキリスト教の教えなのですね。

すてきな教えですね。」というレベルで終わってしまうような気がするのです。

 

「こどもがサンタクロースが北欧にいると信じているように、クリスチャンがキリストの復活を信じているのも、夢があっていいんじゃないですか。」という態度からは、ほんものの信仰は生まれてきません。

むしろ、「復活など信じられない。」と感じ、そこから「ほんとうにキリストは復活したのだろうか。」と問い求める心に信仰が宿るのです。

「キリスト教もいい宗教ですね。」とそれに賛成する人よりも、疑問をもったり、反発したりする人のほうが信仰に導かれる場合が多いと思います。

疑問は信仰の敵ではなく、味方なのです。

 

 復活は事実です。

それは、クリスチャンの間に徐々に広まって、後にキリスト教の教えのひとつとなったのではありません。

復活は「教え」というよりは「ニュース(知らせ)」でした。

しかも、それは世界を変え、全人類を変える大ニュースでした。

新約聖書の最初の四つの書物は「福音書」と呼ばれます。

「福音」というのは「グッドニュース(良い知らせ)」という意味です。

新約聖書の残りの大部分は使徒たちが書いた手紙ですが、手紙はいわば「ニュース解説」のようなものです。

私たちは福音書を読んで復活のニュースを知り、手紙を読んでこのニュースの意味を知ることが出来るのです。

復活の証拠はいたるところに見ることができ、その意味は、聖書にはっきり書かれています。

まだ信仰を持っていない方にとってキリストの復活に対する(?)疑問マークが(!!)驚きマークと

なりますように心からお祈りいたします。

 


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メッセージ内容(2018年4月1日)
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