主イエスが四千人の人々を七つのパンと少しの魚で満腹にされたという出来事が記されています。
主イエスがこのような業をされたのは二度目です。最初は五千人の人々を五つのパンと二匹の魚で養われました。主イエスは繰り返し、食べ物を分け与えて群衆を養われる奇跡をなさったのです。
このような恵みの御業をなされる一方で、19節以下には、弟子たちに対して、呆れ果てている主イエスのお姿があります。
大いなる恵みの御業、奇跡を体験してもそこに意図されている主イエスの御心を悟らない弟子達の姿があるのです。弟子達はパンを持ってくるのを忘れたことが気になっていました。
自分たちの不注意さを主イエスは責め、批判されていると思い込んだのです。
しかし、主イエスが弟子達に分からせたかったことは「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種に気をつける」ということでした。
それは極端な律法主義と現実主義に注意することと理解できます。パン種ですからいつの間にか入り込んで悪影響を及ぼすものになるということです。
私たちは主イエスによって示される恵みに目を向け、その恵みによって生かされていることに思いを向けるよりも、自分自身の力によって、自らの歩みを確かなものにしようとします。
又、恵みによる罪の赦しを悟ることが出来ず、聖書は赦しを語っているのに、自分で自分を裁いたり、隣人の過ちを裁いてしまうことがあります。
主イエスとの豊かな交わりを保って歩む時に私たちは、信仰生活の中での現実主義からも律法主義からも解放されて、主によって生かされる喜びに満たされて歩む者とされるのです。
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