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「すばらしい喜びの到来」(ルカの福音書 2章1〜20節)

私は毎年クリスマス礼拝を守るこの時、何よりこの一年間、信仰を守られてこの日を迎えられたことをうれしく思います。

クリスマスおめでとう、メリー・クリスマスとクリスマスのあいさつをかわせる喜びを思います。

信仰が支えられる、信仰が守られるということは、実に聖霊なる神様が働いて下さり、私たちの歩みを導いて下さったことの確かな証しだと思うのです。

皆さんも、この一年の歩みを振り返るならば、いろんなことがあったと思います。

病気やケガ、愛する者を天に送ったこと、どうしてこんなことがと思うことも少なくなかったと思います。

しかし、それでもなお、信仰を失わなかった。

だから私たちは、今日、クリスマスを喜び、祝う、この礼拝へと集ってきているのです。

中には、この礼拝を守る為に、何日も前から体調を整え、祈りつつ備えをなされた方もおられると思います。

そうまでして、どうしてこの礼拝に集ってきたのか。

それは、どうしてもこの喜びの礼拝に集わなければならない「すばらしい喜び」が、私たちを捕らえ、包んでいるからなのだろうと思います。

私などはクリスマスの賛美を歌えるというだけで嬉しく思ってしまいます。

クリスマス、それは私たちの主イエス・キリストがお生まれになったことを喜び祝う時です。

もし、イエス・キリストというお方が、私たちと何の関係もない方だったのなら、私たちはこのように喜びながら、ここに集うことはなかったはずです。

私たちはこの方によって救われた、新しくされた、神の子とされた、だからうれしいのです。

今年も新しくこの教会の交わりに入って下さった方が少なからずおられます。

それまではお互い知りませんでした。

しかし、今日、共に、クリスマスを喜び祝っています。

お互いの間にあるただ一つの共通点、それは主イエス・キリストに救われ、主イエス・キリストを愛しているということです。

このただ一つの事実によって結ばれているのが、私たちの交わりなのです。

 

教会の交わりに加わる、あるいは加えられるということは、いろんな言い方が出来ると思いますけれど、何よりも大切なことは、主イエス・キリストに救われ、主イエス・キリストを愛しているという同じ一つの喜びを共に喜ぶということでしょう。

礼拝をはじめ様々な教会の活動に加わる、交わりを形作る、献金をもって支える、皆大切なことですがその根底にあるのは、同じ一つの喜びに生かされるということです。

それぞれ、生かされている場も、課題も立場も違います。

しかし、共に同じ一つの喜びに生きている私たちなのです。

ですから神様にあってつながりの無い方はここにはおられません。

あまり今迄話したことが無いと思ってもあなたは祈られているのです。

そして、これからも互いに祈り祈られていきます。

ですから主イエス・キリストから目を離さないで歩んでゆきましょう。

 

さて今日与えられている御言葉において注目したいのは、10節、11節の言葉です。

主イエス・キリストがお生まれになった時、そのことを知らせる御使いが、野宿をしていた羊飼い達に現れて告げた言葉です。

御使いは告げます。

「恐れることはありません。」この時の御使いの言葉は、聖なる方に出会い、恐れている羊飼い達に言われたものです。

この恐れ、聖なる者への恐れ、それを忘れたならば、クリスマスは単なるパーティーやプレゼントの理由付けに過ぎなくなってしまいます。

この御使いの「恐れることはありません」との言葉は、ヨセフに御使いが現れた時にも、マリヤに御使いが現れた時にも告げられたものです。

聖なる方と出会い、恐れる。

それが、クリスマスの出来事の知らせを最初に受け取った者の心の動きだったのです。

天地を造られた聖なる神様が、人となり地上に降ってこられた。

この聖なる出来事は、私たちを恐れさせずにはおかない出来事なのです。

日常のことではない。

あり得ないことが、私の中に入り込んできて、私たちを圧倒してしまう。

そういう出来事なのです。

 

しかし、それにもかかわらず御使いは「恐れることはありません。」と告げるのです。

何故でしょう

か。

救い主が生まれたからです。

聖なる神と罪人である私たちの間には決して罪人である私たちから橋をかけることの出来ないへだたりがあります。

そこに神様の方から橋をかけて下さったのです。

私たちの一切の罪を赦し、神様との親しい交わりに生きることが出来る道、私たちを神の子として受け入れて、私たちが神様に向かって、「アバ、父よ。」と呼びかけることの出来る道を備えて下さった。

だから、私たちは、もはや聖なる神様を恐れることなく、近づくことが出来る。

その道を備えて下さる救い主、主イエス・キリストがお生まれになったからです。

私たちは、このクリスマスの祝いの時、主イエス・キリストの十字架をして復活の出来事を思い起こさない訳にはいきません。

クリスマスに生まれた幼子が、私たちの救い主であられるということは、この方が私たちの為に十字架にかかり、復活して下さったからです。

主イエスの降誕は単にこどもの誕生の喜びというだけではありません。

 

そして、この出来事は、ただユダヤ人だけに与えられた喜びではありません。

全ての民に与えられたものです。

全ての民族、全ての国民、全ての社会的立場にある人、例外なく全ての者に与えられたものなのです。

時々、キリスト教はインテリの宗教、あるいは外国の宗教と言われることがあります。

しかし、それは全く間違っています。

主イエスが生まれたのは、全ての民の為なのです。

そのしるしに、主イエスの誕生を最初に知らされたのは、羊飼いだったのです。

羊飼いというのは、生活が不安定な仕事をしていました。

生き物を相手にしているのですから、安息日を守るということが難しい。

パリサイ人からは、神様の救いの外に置かれていると考えられていた人達なのです。

又、主イエスが弟子にした人の多くは、漁師でした。

中には、取税人までいました。

皆、その当時、社会的には決して恵まれていると言われるような職業の人達ではありませんでした。

そして、主イエスご自身、大工の子として生まれたのです。

王様の子として生まれた訳ではありません。

それは皆、主イエスの救いが、全ての民に、民全体に与えられるものであることの「しるし」なのです。

このイエス・キリストの誕生は、全ての民に与えられる救いの喜びの到来に他ならないのです。

 

ここで、御使いは羊飼い達に、救い主が生まれたということが、「すばらしい喜び」であると告げています。

どんな風に素晴らしいのでしょうか?この「すばらしい」という言葉はきれいだなとか良い感じだなということではなく「とてつもなく大きい」ということです。

「とてつもなく大きな喜び」「決して失われることのない喜び」ということです。

私たちは生きていく上で、様々な苦しみがあり、悲しみに出会います。

しかし、この喜びは、どんな苦しみや悲しみによっても消し去られることがない喜びだと言っているのです。

 

私はクリスマスのこの時期、病床にある方々の所を訪れました。

今、私たちがこの祝いの礼拝をささげるこの時にも、それらの人々を忘れることは出来ません。

私たちは、その人々に代わって、その人々と共に礼拝をささげているからです。

クリスマスカードを持っていって、みことばを読み、共に賛美します。

今年は殆ど「聖しこの夜」を歌いました。

ある方はしゃべることが出来ないけれども必至で歌おうとして下さいました。

心の声は十分聞き取れました。

訪問は長くても15分か20分程度です。

ベッドの横にいるだけですけれど、その苦しい息づかいを聞きながら、クリスマスおめでとうございますと言って祈ります。

告げられた方は、こんな苦しい時にクリスマスもないものだと思われるかもしれない。

しかし、私が牧師として告げたいのは、あなたの今のこの苦しみも、クリスマスの大きな喜び、救い主がお生まれになって、私の罪も苦しみも痛みも、全てを担って下さっているという事実。

将来、今の痛みや苦しみ、悲しみをはるかに補ってあまりある喜びが与えられるということです。

 

私の為に、救い主がお生まれになった。

私の為に、天地を造られた方が、幼子となって降ってこられた。

この大きな喜びを、私たちから奪うことが出来るものは、何一つこの世界には存在しないのです。

それが、御使いが告げた、「すばらしい喜び」「大いなる喜び」ということなのです。

今年は教会にとっても、また個人的にも神様の御許に召される方が多い年でした。

やはり大きな悲しみ、寂しさがこみ上げてまいります。

しかしそれでもクリスマスのこの大きな喜びの中に生かされている私たちは、パウロと共に、こう言い切ることが出来るのです。

ローマ8章35,37〜39節「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。

患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

...しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私はこう確信しています。

死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」これが、大きな喜びに包まれている私たちの心からの叫びなのです。

病床にあっても神様に向かって共に祈れる、共にアーメンと言える。

それは居る場所は違っても神の愛によって繋がっているということです。

 

大いなる喜びである御子イエスの誕生はすでにあり、全ての人のための救いのわざは十字架と復活をもって成就完成しているのです。

ですから今後どのようなことが私たちにあっても勝利は確定しているのです。

テレビでひいきのチームが勝っていることが分かっている試合の録画は安心して見ることが出来ます。

このクリスマス、すばらしい喜びの中で安心して悩み、安心して悲しみ、安心して労苦してゆきたいと思います。

今の痛みや苦しみ、悲しみをはるかに補ってあまりある喜びが与えられるということが確実ですから。

 

みことばを読んで終わります。

ルカ2:10,11節「御使いは彼らに言った。

『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。

この方こそ主キリストです。』」