メッセージ

メッセージ · 2021/06/20
今日の箇所にはイサクの柔和な姿が描かれています。 少し前に井戸をめぐりペリシテ人とのやりとりにおいてお人好しと言おうか争わないで引き下がったり、井戸を明け渡したりしてイサクの柔和な性質が表れています。  では、イサクはまわりの言うがままになる気が弱くて、弱々しい人だったのかと言うとそうではありません。 実は、彼は芯の強い人でした。 イサクのしもべたちとゲラルの羊飼いたちとの間に争いがあった時、イサクは、自分のしもべたちを引き下がらせていますが、これはリーダシップがなければできないことです。 また、イサクを追い出したペリシテの王アビメレクがやってきた時には、「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。 あなたがたは私を憎んで、あなたがたのところから私を追い出したのに。」(27節)と、言うべきことをはっきりと言っています。 ですから強さをもった柔和な人と言えます。  イサクばかりでなく、神を信じる者たちには、強さと柔和さが求められています。 争いの中に平和をつくり出していく創造的な力、迫害にも屈しない強い心を、イエス様は私たちに求めておられます。 しかもそれは独善的なものではあ

メッセージ · 2021/05/30
聖書に出てくる信仰者は何千年も昔に生きた人々です。 私たちにとって遠い存在です。 しかし永遠にして創造主なる神は聖書を通して、現代の私たちにも、いにしえの信仰者に示されたみ心を示しておられます。 その意味においていにしえの信仰者は私たちにとって遠くて近い信仰者と言えます。 まず最初はアブラハムの信仰から学びます。 場面は一人息子イサクを捧げるように神から言われたところです。 神は私たちにアブラハムを通してどのような信仰を求めておられるのでしょうか? 第一に、神が私達に求めておられるのは「試練によって成長する信仰」です。 イサクを捧げることは大変な試練でした。 しかし神は試練を通して希望につながる何かを与えようとされているのです。 第二に、神が私達に求めておられるのは「神に従う信仰」です。 アブラハムは理不尽な要求を拒否することも出来ました。 しかし、アブラハムは矛盾、理不尽さの先にある神の御心を求め、神に従ったのです。 第三に、神が私達に求めておられるのは「みずからを神にささげる信仰」です。 アブラハムにとって自分のいのちよりも大切なものはイサクでした。 イサクをささげること

メッセージ · 2021/05/23
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」ローマ10:13  今日は教会暦でペンテコステ(聖霊降臨)の日にあたります。 この時ペテロは説教しましたが、その中でも今日のみことば 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」と同じような意味で 「主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」使徒2:21との言葉が語られました。 救いの決め手となるのは、主の御名を呼び求めることであることが分かります。 ペンテコステ以降、福音宣教が拡大し、教会が至る所に形成されてゆきました。 福音の本質は十字架による罪の赦しと復活によるいのちですが弟子たちは、イエスの御名を宣べ伝え、イエスの御名によって祈り、礼拝していました。 イエスの御名の中に十字架と復活が実質として込められていたのです。 当時、弟子たちの活動や行動からついに彼らは「御名を呼ぶ者たち」と言われるようになりました。  私たちにも初代の弟子たちと同じ「イエス・キリストの御名」が与えられています。 私たちは祈りの最後に「イエス・キリストのお名前で祈ります」と言いますが、これは単なる「決まり文句」ではありません。 私たちも…

メッセージ · 2021/05/16
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。 ローマ10:10 ローマ10:9〜10は信仰と共に、告白を教えています。 9節では告白して、信じるとあり10節では信じること、そして告白するとなっています。 これは別々のものではなく、ひとつのことということです。 心にある信仰は、告白となって唇に上るものです。 「告白する」という言葉は「同じことを言う」という意味があります。 何と同じことを言うのでしょうか。 一つには自分の心の中にあることと口に出すこととが同じであるという意味です。 心の中にあることと口に出すことが違っているのは偽善者ということになります。 またもう一つの意味〔これはクリスチャンにとっては大きな意味を持ちます〕は私が口に出すことは神の言葉と同じだということです。 神の言葉が「すべての人は罪を犯した」と言うので、私たちも「私は罪を犯しました」「私は罪びとです」と告白するのです。 神の言葉が「罪から来る報酬は死です。 しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と言うので、私たちも「私を死から救い出し、永遠の命を与えてください」と

メッセージ · 2021/05/09
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」ローマ5:8 キリストの救いによって、私たちに3つのことがもたらされました。 それは「神の愛」(5節)、「神との和解」(10節)、そして「喜びの生活」(11節)です。 先ずイエス・キリストの救いは、私たちに「神の愛」を経験させてくれました。 私たちは誰もが、誰かに愛され、誰かを愛したいという願いを持っています。 人間はそのようにもともと造られたのです。 しかし罪によって愛のかたちは歪められました。 キリストによって私たちは本物の神の愛を知ることが出来るようになったのです。 二番目にキリストの救いは神との和解をもたらしました。 罪の赦しと神との関係の回復とは別のことです。 旧約時代はなだめのそなえ物を捧げて神との関係が保たれました。 キリストの十字架はご自身がなだめのそなえ物となってくださり、それによって人と神との関係が回復したのです。 三番目にキリストの救いは私たちに「本当の喜び」をもたらしました。 「喜び」の反対は「悲しみ」ではな

メッセージ · 2021/05/02
罪から来る報酬は死です。 しかし、神の下さる賜物は、 私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。 ローマ6:23 骨折り損のくたびれ儲けとは大変な苦労をしながら何の益ももたらされないこと、つまり無駄なことをしただけという意味でよく使われます。 このローマ人への手紙を書いたパウロも同じようなジレンマに陥っていました。 救いを求めて一生懸命、真面目に生きているにもかかわらず、いつまで経っても不安があり、落ち込むばかりだったのです。 「報酬」とは自分のしたことに対する報い、正当な評価ということです。 「罪の報酬」とは罪がもたらす正当なマイナスの報酬ということです。 それは「死」です。 「死」とは、からだの死だけでなく、たとえからだが生きていても、その霊やたましいが神のいのちから遠く離れ、人生を喜びと平安をもって生きることができないという霊的な死のことでもあるのです。 「賜物」とは報酬とは違い、自分のしたことではなく、他から与えられるものです。 「恵み」とも言います。 パウロは私たちは「罪の奴隷」とも言います。 「奴隷」とは一生その関係が解けないということを意味します。 私たちが

メッセージ · 2021/04/25
ローマに関して「ローマは一日にして成らず」、「すべての道はローマに通じる」等の有名なことわざがあります。 聖書にもローマということでローマ書があります。 そこには、ローマに至る街道が舗装され、整えられていたように、救いの道が論理的に整った形で書かれています。 それは先ほどの言い方を用いて「救いに至るローマ(書)の道」と呼ばれ、これにはローマ3:23、6:23、5:8、10:9〜10、10:13の五つの箇所が選ばれています。  最初の今回はローマ3:21~26が取り上げられ、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず(23節)」と言って、私たちに罪からの救いが必要であることを教えています。 罪については1章と2章に詳細に記されていますが様々な人間の罪の根源は神に対して罪を犯したことにあります。 その結果、神との関係が失われ、様々に影響が及び、それがずっと継続してきているのです。 もし、聖書がローマ3:23で終わっていたら希望はありません。 しかし、続く24節があります。 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリ

メッセージ · 2021/04/18
主イエスは復活して40日の後、天に帰られました。 キリストの昇天です。 この主イエスの昇天には二つの大きな意義があります。 1.「御国をもたらすため」・・主イエスの福音は「神の国」の福音でした。 この「神の国」は全世界大を視野に入れたものです。 しかし、弟子達ですら、彼らにとっての「神の国」とはユダヤの国の独立、つまりこの世における強さが表わされることでした。 弟子のクレオパが「私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだと望みをかけていました。」ルカ24:21がそれを物語っています。 しかし、主イエスは復活され、昇天されました。 主イエスに代わって聖霊が下り、教会が誕生しました。 こうやって神の国は全世界に拡がり始めたのです。 2.「御国に迎えるため」・・「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。 わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」ヨハネ14:3と主は言われました。 死は、ドアのようなものです。 死によって私たちは無くなってしまうのでなく、ひとつの部屋から別の部屋に移るだけです。 しかも、そこには

メッセージ · 2021/04/11
日曜日の朝早く復活されたイエスは、弟子たちに現われ、その手とわき腹を見せました。 ところが、その時、トマスは、そこに居合わせませんでした。 彼は「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言って、他の弟子たちの言うことをすぐには受け入れませんでした。 このことから彼は「疑い深いトマス」と呼ばれることになりました。 「疑い深い人」というと物事を否定的に捉え、不信感をもって人や事象にあたる人に思われがちですが実際のトマスはそのような人ではありません。 例えばイエス様が身の安全が保障されない所に行こうとされた時、トマスだけが「私たちも行って、主といっしょに死のうではありませんか」と言っています。 熱い心の持ち主です。 ただ自分だけが復活の主に出会えなかったことを残念に思っているのです。 しかしそのトマスにも復活の主イエスは会い、「私の傷口に手を当てなさい」とまで言われました。 こうやってすべての弟子が復活の主イエスの証人となったのです。 ヨハネ福音書の最後にトマスのことが書かれているのは私たちのためです。 この時…

メッセージ · 2021/04/05
今日はイースターです。 今朝の賛美歌で私たちは「ハレルヤ」と歌いました。 「ハレルヤ」というのは、「ハレル」(賛美せよ)「ヤー」(主を)という意味です。 もともとはヘブル語ですが、「アーメン」という言葉と同じように、これは世界共通語になっています。 神の真理に対してアーメンと答え、神のみわざに対してハレルヤと賛美できるのは、本当に素晴らしいことです。 イースターの朝、私たちも、もういちど、こころ一杯ハレルヤを唱えましょう。 さて「イースターとは、矛盾した祝日です」と言った人がいます。 何が矛盾かというと、罪のない方が裁きを受け、正しい方が罪を背負って十字架におかかりになり、神の子が父なる神から見捨てられ、人にいのちを与える主が死なれたからです。 どれも本当に矛盾しています。 ありえないこと、あってはならないことです。 そしてさらなる矛盾はイエスの墓を訪ねに来た婦人たちが、その墓でイエスはよみがえられたというメッセージを聞いたことです。 彼女たちは、死以外何も示さない墓場でいのちのメッセージを聞いたのです。 今日の午後に猪名川霊園に出かけますが普通お墓が示すものは死以外にありません…

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