メッセージ

メッセージ · 2019/02/10
人生とは何でしょうか? 私たちがこの地上に生かされている目的は何でしょうか? 聖書は私たちの人生とは愛を学ぶことだと言います。 大切なことは神と人を愛することを学ぶことだと教えています。 主イエスは神と人を愛することが最も大切な戒めであると言われました。 神と人を愛することがどうして重要なのでしょうか?それは神が愛だからです。 そのことをヨハネは私たちが頑張って神と人を愛してゆくという意味では言っていません。 わたしたちの行いで、神様を知ることが出来るのであれば、イエス様がこの世に来る必要はありませんでした。 ヨハネが伝えたいことは根源的、源として「神様が愛である」と言っているのです。  ではどうすれば私たちは愛する者となれるでしょうか?わたしたちは、イエス様に出会い「愛される者」であることを知り、聖霊によって「愛する者」へと変えられて行くのです。 神様は愛であり、愛の源流でもあられます。 その愛の流れは、どこに到達するのかというと、それは、イエス・キリストの十字架の死を通して「わたしたちに示されました」9節 わたしたちに示されるということは、わたしたち一人一人が神様の愛を、心でも…
メッセージ · 2019/02/03
今日の説教題は「教会と共に生きる意味」です。 クリスチャンはどんなに有能であったとしても一人で孤独に生きてゆく人生を過ごしません。 神様はこの世界が創造された時から、私たちが他の人との関わりを持ちながら、共に神様の御心の中を生きるように計画しておられました。 教会の人々と一緒に生きてゆくのが神様の変わることのないご計画です。 今日のみことばにありますように私たちは結び合わされて成長してゆくのです。 教会とはキリストのからだであり、キリストのからだとは私達キリスト者一人一人がそのからだの器官です。 そしてキリストのからだの中にキリストのいのちがあるのです。 キリスト者として成長しようとするなら他のキリスト者、つまり教会とつながっている必要があるのです。 ちょっと硬い言い方となりましたが要はクリスチャン人生、みんなで一緒が良いということです。  では改めてみんなで一緒ならどんな点が良いのでしょうか?  5つあげてみます。
メッセージ · 2019/01/27
 パウロは、ピリピ教会の人々に「同じ思いとなる」ようにと勧めています。 1節に「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」とあります。 ここで「同じ愛の心を持ち」と言うのは、同じ神の愛を受けた者として互いに愛し合うということです。 さらに、「心を合わせ、志を一つにして」と言う言葉には、一つの心となって戦うと言うニュアンスがあります。 そのような深い一致が語られているのです。 私たちは、ここで語られているように同じ思いとなることができたらどんなに素晴らしいだろうかと思わされるのではないでしょうか。 そのように思うのは、私たちが、同じ思いとなることの難しさを良く知っているからだと思います。 私たちの人間関係は、同じ思いとなることが出来ないことによる、対立や、いざこざに満ちています。 それは、地上に建てられた全ての教会の現実でもあります。 教会も又、人々が集まる場所であり、教会の交わりの中で、様々な人間関係の問
メッセージ · 2019/01/20
 主イエス・キリストは、十字架につけられた後、墓に葬られました。 キリスト者の信仰にとって、主イエスが墓に葬られたということには、大きな意味があります。 主イエスが墓に納められたということによって、主イエスは、仮死状態から蘇生したのではなく、神様なのだから死についても特別な方法を持って、迎えたということでもなく、完全な死の中に身を置かれたということです。 それは私達にとって大きな恵みです。 主イエスが完全に死なれたということは、私達のこの地上の人生で通る道を完全に通って下さったということです。 主イエスは完全に人でありながら完全に神であるお方です。 しかし、考えてみるとその誕生においては主イエスは処女マリヤから生まれ、地上を歩まれた時も、神の子として、力強く福音を語り、奇跡的な御業を行いながら歩まれました。 更には、その死の場面においても、十字架という苦難を身に負い、その苦しみに耐えながら死んで行くことによって神の救いの御業を成し遂げられたのです。 これらの姿は、どれも、私たちの地上での歩みとは大きく異なっています。 しかし、そのような主イエスが、その十字架の後に
メッセージ · 2019/01/13
 本日の箇所は昨年11月に、待降節、降誕節を前に一旦止めていたマルコ福音書からの説教の継続箇所となっています。 主イエス・キリストが十字架に架けられ、死なれる時の様子が記されています。  キリスト者にとって信仰の中心は、主イエス・キリストの十字架です。 キリスト教信仰とは十字架のみ私たちの救いであることを信じて生きることです。 十字架が救いであるということは十字架について死なれたお方が神の子、すなわち神ご自身であり、人間の罪を担った救い主が死なれたということです。 どんなにその名が知られていようと、どんなに残虐な刑罰によって死なれようと、どんなに人がイエス・キリストは偉大な宗教的指導者であり、苦しみを受けて死なれたことを知っていても、だから主イエスは救い主ということにはなりません。 主イエスは神と等しい方であり、そのお方が聖書に示された預言の通り、この世に来られ、預言の通り十字架で悲惨な死を遂げられた、そして預言の通り復活されたことの故に救い主として信じられるということです。 もし、主イエスが神の子であると信じられないならば、十字架は救いではなく悲しむべき事件という…
メッセージ · 2018/12/30
シメオンとアンナ、二人の人が出てまいります。 シメオンが「今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。」と言ったのは、 「私はそのように言うことができる安らかさを、平安を、満足を得ました。その安らかさの中を生きています」と理解すべきでしょう。 つまり、死ぬ間際のことばというよりも、このような安らかな思いを抱いて生きることができるようになったということです。 そして、そこにこそ、人間の本当に充実した、幸福な人生があるということです。 平たく言えば、私はいつ召されても大丈夫という気持ちを持って今を生きているということです。 これに優る平安はありません。 しかもこの平安は自分や他人との関わりの中から出てくることばではありません。 平安、平和を求めて躍起になっている今日。 真実な平安は神からしか来ません。 そしてシメオンもアンナも神からの平安と慰めを受けることを人生の第一番目のものとして祈り、備えていたからこそ救い主と出会い、賛美し、ほめたたえることが出来たのです。
メッセージ · 2018/12/16
マタイが1章で語っているのはもっぱら、母マリヤがどのようにしてイエスをみごもったか、そしてそれを知った父ヨセフがどうしたか、ということです。特にこの章では、父ヨセフに焦点が当てられています。 ここに「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった」とあります。 この、たった三行ほどの間に、淡々と書かれていることは、実はとてつもなく重大なことです。 ヨセフは、婚約者が、自分以外の何者かによって妊娠したという事実を突きつけられました。 このような状況の中で、ヨセフは一つの決心をします。 「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた」。 正しい人ヨセフが悩みに悩みぬいて出した精一杯の結論でした。 この時、ヨセフはみ使いを通して、神の御心を知らされます。 それはマリヤが聖霊によって身ごもるということ。そして生まれた暁には名をイエスと名付けることでした。 ここでヨセフがみ使いの声を聞き、その声に聞き従いましたがそれは取りもなおさず神がヨセフの信仰に御自らの計画をゆだね……
メッセージ · 2018/12/09
今日の箇所の後半にザカリヤの賛歌が出てきます。マリヤの賛歌がその冒頭の「あがめ」という言葉のラテン語訳から「マグニフィカート」と呼ばれているように、このザカリヤの賛歌も冒頭の「ほめたたえよ」のラテン語である「ベネディクトゥス」という呼び方で親しまれています。しかし、マリヤの賛歌に対し、ザカリヤの預言とも呼ばれます。理由は歌の後半にザカリヤの子、バプテスマのヨハネについて書かれているからです。そこに生まれたばかりの幼な子ヨハネが将来どのような者となり、どのような働きをしていくか、それによって神様のどのような恵みが実現していくのか、という予告を語られています。 ヨハネはどのような働きをしたのでしょうか。「道を備える者」です。救い主イエス・キリストのための道備えをする人です。ヨハネと主イエスの間には、相撲で言えば露払いと横綱のような、落語で言えば前座と真打ちのような関係があります。しかし、それはヨハネの働きが軽く小さいということではありません。彼は人々に悔い改めを求め、悔い改めの印としての洗礼を授けました。彼は人々の罪を厳しく断罪し、それに対する神様の怒りを語りました。罪の赦しが無ければ…
メッセージ · 2018/12/02
今日の聖書の箇所にはマリヤがエリサベツの語った言葉への応答として歌った歌、いわゆる「マリヤの賛歌」が出てきます。 マリヤは「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」と歌い出しました。 冒頭に来ているのは「わがたましいは」ではなくて、「あがめる」という言葉です。 あがめるとはラテン語で「マグニフィカート」という言葉なので、この「マリヤの賛歌」は「マグニフィカート」と呼ばれています。 その意味は「大きくする」です。 「主を大きくする」それが「主をあがめる」の意味なのです。 「主を大きくする」とはどういうことでしょうか?実は主を大きくする、神を大きくすることは不可能なことです。 全知全能なる神様、全ての創造主なる神様は無限で比類無きお方ですので、大きくされる必要など全くないのです。 シンプルな理屈であり、霊的真理ですが、それでも主を大きく出来るとしたら自分が弱く小さなものとなることしかありません。 神様をあがめるためには、自分の小ささ、弱さ、罪深さを認めてへりくだることが必要なのです。 マリヤが「幸いな人」であるのは、神様のみ前で卑しい、ちっぽけな者でしか…
メッセージ · 2018/11/25
年若く、結婚もしていないマリヤにみ使いが「あなたは身ごもり、男の子を産みます。名前をイエスとつけなさい。」と告げました。当然、マリヤは戸惑い、不安になりました。 しかし、すでに高齢ながらも身ごもっていたエリサベツのことをあげながら「神にとって不可能なことはありません。」とのことばをみ使いは宣言しました。 そしてマリヤは「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と応答したのです。 マリヤはここで神は全知全能なるお方であるがゆえに奇跡やしるしを起こすことも出来るという一般的な意味で神を信じたのでしょうか?  実は「神にとって不可能なことはありません。」ということばは原文では「なぜなら、神においては、全ての言葉は不可能ではないからだ」という直訳になります。 つまりマリヤがここで信じて受け入れたのは、神様は何でもできるという一般的な真理ではなくて、神様は語られたみ言葉を必ず実現することができる、それゆえに私に対して語られたみ言葉も必ずその通りに実現して下さるということだったのです。 マリヤはまた「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり…

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