樹でも花でも、普通私達が注目するのは実であり、花の部分です。
しかし根や幹は養分と水分を吸い上げますが実を実らせるためには枝が重要な働きをします。
聖書にははっきりとイエス・キリストがぶどうの木であり、私達はその枝であると書かれています。
ぶどうの木と枝との関係は切っても切れない関係と言いましょうか特別な関係です。
ぶどうは、他の木とは違って、実を結ぶためにあります。
他の木でしたら、太く、強く育ち、材木や燃料として使うことができますが、ぶどうの木は、細くて弱く、材木にもなりませんし、燃料としても、すぐ燃え尽きてしまいますから、たきつけ程度にしかなりません。
材木や燃料にならなくても、鑑賞用に植えられる木もあり、その枝振りが誉められたり、花が好まれたりしますが、ぶどうの場合は、その枝ぶりがほめられることはまずありません。
ぶどうは実を結ぶために植えられ、植えた人は、実を期待し、その実を誉め、喜びます。
同じように、ぶどうの木につながっている枝、つまり、イエス・キリストを信じ、クリスチャンに期待されるのは、実を結ぶことです。
ヨハネ15:1〜16には「実を結ぶ」「実が残る」と…
2021年の教会の指針は「実り」と「成長」です。
指針聖句は詩篇92篇12節「正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます」です。
昨年すでに教会手作りのカレンダーに掲載していますのでご存知の方も多いことと思います。
聖書は、神に信頼する正しい人々をなつめやしの木、レバノンの杉にたとえています。歳をとっても衰えることなく、豊かな実を結ぶ姿が「なつめやし」に、神の祝福を受けて、世を去る日まで霊的に成長していく姿が「レバノンの杉」にたとえられているのです。神は、私たちの歩みを様々に守り、支え、必要を満たしてくださると共に私たちに、なつめやしのように実を結Iぶことと、レバノンの杉のように成長することを期待しておられます。
神は、神を信じ、神に従う者に、実を結ぶことを期待しておられます。どんなに長い人生を送ったとしても、そこに実が結ばれることがなかったら、なんとむなしいことでしょうか。主イエスは弟子たちに「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためです。」ヨハネ15:16と言われま…
今年 2020 年を振り返りますとコロナ禍で始まり、コロナ禍で収束のないま まこの一年が終わろうとしています。
平穏も安全も、決して当然のことでは なく、神の恵みであって、改めて感謝すべきことなのだということを身にし みて感じる一年であったのではないでしょうか。
この詩篇の作者であるダビデ王も今までの歩みを振り返りながら「主の良 くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と言って神の恵みを数えあげてい ます。
それは病気のいやしや健康の恵みであり、大きな危険から守られたこ と、そして毎日、毎日、神が必要を満たしてくださったことがあげられてい ます。
とりわけダビデは「主は、あなたのすべての咎を赦し」と言われている「罪 のゆるし」の恵みを一番にあげています。
何故でしょうか? それは罪の赦 しは、神を信じる者に与えられる特別な恵みだからです。
確かに全ての人に 神様の恵みと祝福は注がれています。
神を信じていない人であっても少し冷 静に自分の人生について考えてみるなら人の力を超えたものを感じることが 出来ます。
しかし、神の愛、救い主キリストの愛、それもこの私に向けられ た神の愛を感じ
私たちはアドベントに四本のキャンドルを灯して礼拝をしてきました。
最初のキャンドルは「希望」、次は「平和」、三本目は「喜び」、そして、四本目のキャンドルは「愛」を表わしています。
四本のキャンドルが表わす「希望」、「平和」、「喜び」、「愛」はどれも、生きていくのに必要で大切なものばかりです。
人は希望なしには生きていけません。
また、平和がなければ生きた心地はしませんし、喜びがなければ生きていることが虚しくなります。
そして、愛がなければ生きることは苦痛でしかなくなります。
希望を失くしたときの惨めな思い、人間関係が壊れたままで過ごさなければならないやりきれなさ、何をしても喜びを感じられないわびしさ、愛を感じられない痛みと辛さを、一度や二度は味わってこられたのではないでしょうか。
アドベントの四本目のキャンドルは、人が生きていくのに無くてならない愛を示しています。
そして、その愛とは、神の愛だと言っています。
その神の愛は、今から二千年前のベツレヘムで表わされました。
それで、愛を表わすキャンドルは「ベツレヘムのキャンドル」と呼ばれるのです。
では、ベツレヘムで表わされた神の愛とは
「クリスマス」とは「キリストへの礼拝」という意味です。
ですから「クリスマスの喜び」とは「キリストを礼拝する喜び」ということになります。
この喜びはキリストから、神から来るものです。
神様を認めていない人は「笑い」や「楽しみ」が「喜び」であると思い込んでいます。
それは悪くは無いのですが残念ながら一時的なものに終わってしまいます。
そして最後には虚’しい気持ちになるか、もっと刺激を求めて動き回ることになるかもしれません。
では、どうしたら、キリストから来る喜びを自分のものにし、それを人々と分かち合うことができるのでしょうか。
今日の羊飼いの箇所から学ぶことができます。
それは彼らが「聞く喜び」と「見る喜び」を体験したからです。
先ずこの喜びは御使いによって告げられたということです。
「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」
つまり彼らの中からではなく、外から、上から、つまり神様から与えられたのです。
そしてそれを彼らは聞き、信じたのです。
また御使いは羊飼いに「しるし」を与えました。
「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけ…
「神に栄光あれ」と歌った御使いは、続いて「地に平和があるように」と 歌いました。
「栄光」が救い主によって明らかにされた栄光であるように、こ の「平和」もまた、救い主によって与えられる平和をさしています。
これは スローガンではありませんし、キャッチコピーでもありません。
「その名は『不 思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」イザヤ 9:6 と あるように真の平和をもたらすのは救い主なるイエス・キリストです。
イエ ス・キリストが降誕されたあたりの約 200 年間は歴史上「ローマの平和」と 呼ばれる時期でした。
しかし字に反して、この「ローマの平和」は多くの犠 牲や苦しみの上に成り立っているものでした。
古今東西、残念ながら人間の 力や知恵によって平和、平安はもたらされません。
本物の平和、平安はただ おひとり、まことの救い主、平和の君であるイエス・キリストだけが、もた らすことができると聖書は教えているのです。
キリストによって与えられる平和は、まず、人の心に「平安」となって宿 ります。
イエスは弟子たちに「わたしは、あなたがたに平安を残します。
わ たしは…
アドベント(待降節)の間、わたしたちは、四本のキャンドルを灯して、クリスマスを待ちます。
本日の第一週のキャンドルは「預言のキャンドル」、第二週は「天使のキャンドル」、第三週は「羊飼いのキャンドル」、そして第四週は「ベツレヘムのキャンドル」と呼ばれます。
それぞれのキャンドルには、テーマがあって、「預言のキャンドル」は「希望」です。
わたしたちの希望は、「預言」、つまり、神の言葉から来ることからそれがテーマとなっています。
希望の光は、キャンドルにたとえるなら、神の言葉という蝋を燃やしながら輝きます。
希望のないところで人は生きることができません。
どんなに豊かなものを手に入れても、希望が無ければ、からだは生きていても、たましいは死んでしまうのです。
けれども、どんな逆境の中にあっても、たとえ明日も知れない生命の危険にさらされている場合でも、希望を持つ人の目は輝いています。
聖書が示す希望は私達の思いつきや希望的観測といった人によって描かれるものではありません。
もしそうならすぐに消えてしまいます。
この預言のキャンドルが与える希望は尽きることがありません。
「夜明けとなって、明…
ある人の文章に「恐れは許可なく心に忍び込み、無力感を与え、心の平和を奪う」とありました。
私達が心の平安を持続して持つことは本当に難しいものです。
イエス・キリストは「わたしは、あなたがたに平安を残します。
わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。
わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。
あなたがたは心を騒がしてはなりません。
恐れてはなりません。」とおっしゃいました。
イエス・キリストが与える平安と世が与える平安とは何が違うのでしょうか?というよりイエス・キリストご自身、不安を幾度も体験されました。
しかし、それは普通、人が体験する不安と恐れではなく罪と死の力そのものに対してでした。
私たちが不安と恐れを感じるものはイエス・キリストにとっては別段大きな問題にはなりません。
イエスに押し迫ってくるものが、たんなる迫害や苦難だけなら、イエスは、さほど心を騒がせることはなかったのです。
それこそ神の御子の力を発揮すれば、罪と死を根こそぎ滅ぼしてしまうことだってお出来になるのです。
しかし、それでは、それとともに人も世界も滅びてしまいます。
イエスは人の罪を背負っ…
新型コロナ感染のためにネット礼拝となって7カ月が経ちました。
「なぜ、こんなことが起こるのか。」何か大きな出来事があると、私たちは決まってそう考え、そう口にします。
ヨブが大きな苦しみに遭ったとき、ヨブの友人たちは神に代わってヨブを教えようとしました。
しかし、それはヨブに何の答えにもなりませんでした。
最後に神ご自身がヨブに現れ、ご自分の力を示されたとき、はじめて、ヨブは神の前に悔い改め、苦しみから救われ、以前にまさる祝福を受けました。
神はヨブに理論的な「解答」を与えませんでしたが、〜「解決」を与えました。
苦しむ者に必要なのは論理、理屈ではありません。
重い病気にかかった人が医者から聞きたいのは、どのようなことが原因でその病気が起こり、統計的にどれだけの確率で死にいたるかといった説明でしょうか。
そんなことではなく、病気を治すために医者が何をしてくれ、自分が何をしなければならないかということでしょう。
私たちが神に「なぜ」と問うときも同じです。
主イエスは、私たちに苦しみの意味を論理的に説いたり、そこから救われるための修練の道を教えたりされませんでした。
人は言います。「神が…
今日は礼拝に続いて召天者記念の祈り会が予定されています。
今年はコロナ禍ということで墓前集会の時を持つことが出来ませんでした。
それで教会において記念の祈り会の時を持つことにいたしました。
しかし次善の策として教会で持っているわけではありません。
初代教会では、毎週の礼拝が、亡くなられた方を覚える場でした。
特に聖餐の際「わたしを覚えてこれを行いなさい」と言われた主イエスを覚えると同時に主にあって天に召された魂を覚える時でもありました。
聖餐のテーブルの形や大きさは、じつは、棺の形の大きさです。
初代教会では、聖餐のテーブルの下に、亡くなった方の遣していったものを納めたりもしていたのです。
聖餐のテーブルこそ、召された兄姉のいる天の御国と地上で歩みを進める者の接点でもあったのです。
さらに「天に登録されている長子たちの教会」(へブル12:23)とありますが、このことばは、教会が地上だけでなく、天にもあることを教えています。
地上の教会は、建設中の教会です。
まだまだ未完成です。
しかし、天の教会は完全なものとされた栄光の…