メッセージ · 2018/08/12
私たちは、主イエスがいつ帰って来られるのかを知ることはできません。また自分の人生に、そしてこの世界に、これから何が起こるのかも知ることはできません。 それらは全て父なる神様が知っておられます。私たちにただ一つ知らされているのは、将来主イエスが帰って来る、その時に、今は隠されている主イエスのご支配があらわになり、私たちの救いが完成するということです。その約束を信じて、忍耐と希望と喜びの中で、目をさまして主の再臨を待ちつつ、主が今私たちに委ねて下さっている務めをしっかりと果していこうではありませんか。
メッセージ · 2018/08/05
「逃げなさい」というのは、自分の力で最後まで戦おうとするな、ということです。  信仰生活を続けてゆく時に多くの場面で忍耐が必要とされます。しかし、私たちの忍耐が救いをもたらすのではないのです。私たちが苦しみと戦って勝利したから救いを獲得するのではないのです。私たちは耐え忍ぼうと逃げようと最終的には神様の憐れみによって救っていただいた者に過ぎないのです。主イエスも教えられた「主の祈り」の中で「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と「自ら闘う」よりも「神に守られる」ことを祈るようにと勧めておられます。信仰者としての勇気と謙遜が求められます。
メッセージ · 2018/07/29
今日のマルコ13章はヨハネ黙示録に比して「小黙示録」とも呼ばれます。主イエスは捕えられ、十字架につけられる直前に、最後の教えとして、世の終わりのことをお語りになりました。  まず世の終わりが近づくとさまざまなしるしが起きるがそれは世の終わりを意味してはいないということ。様々なしるしはどの時代にあっても起きていることであり、それがいつ終りを迎えるかということにはならない。 キリスト者個人や教会にも世の終わりが近づくと様々な苦しみや痛みが起こってくるが、それらは“産みの苦しみ”とも言うべきことで神のみ心のうちにある世の終わりに至るためには通らなければならない道である。 そういう状態にあって信仰者としての証しすることにおいてたじろぐかもしれないが語るべきことばは聖霊が与えてくださることが約束されている。   キリスト者はこの世の終りに主イエス・キリストによる救いが完成することを知っているので忍耐をもって信仰を守りぬくことに大いなる意味と意義がある。  信仰のゆえに受ける苦しみを私たちはそのように受け止めて、最後まで耐え忍ぶ者でありたいと願わされます。
メッセージ · 2018/07/22
律法学者とは神の戒め、律法についての専門家であり、社会が神の御心に沿った歩みが出来るようにアドバイスしたりする者でした。 それゆえに人々から尊敬を受けたりしていたのですが福音書が書かれた当時は自分たちが人よりも尊ばれ、重んじられ、名誉ある者とされることをいつも求めていました。 神が崇められているようで実は自分が崇められることを考えるようになっていたのです。 その根本的な原因は神よりも人の目を意識して歩んでいたからでした。 次にごくわずかな献金を捧げたやもめの話しが出て来ます。 この話は献金は額の問題ではないことを教えているのでもなければ、収入の中の割合、パーセンテージが大切なのだということを教えようとしているのでもありません。 額にしても割合にしても考えられていることの基本には人がどのように評価し、見ているか、つまり人の目ということがあります。 律法学者の姿を反面教師として、そしてやもめの姿から教えられることは人は社会、人間関係の中で生きていますので人の目や評価はどうしても気になるところではありますがそこから自由にされるのはただイエス様に、神様にのみ目が向けられてゆくことなのです。
メッセージ · 2018/07/15
今、あなたの目の前には私がいる。 遠くない。 そしてあなたに語りかけている、この私を信じ、私に従って共に歩み、私にこそ依り頼むこと、それがあなたに欠けているのだと主イエスは言っておられるのです。 神が私たちを、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛して下さった、その愛の現れが主イエス・キリストです。 その愛によって心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる神を愛していくことができるのです。 主イエス・キリストはそのように私たちを、自分を愛して下さっている神を愛し、神に愛されている自分を愛し、自分と同じように神に愛されている隣人を愛して生きる信仰へと私達を招いて下さっているのです。
メッセージ · 2018/07/08
ここに語られているのはまさに主イエスの最後の一週間の出来事です。主イエスを殺してしまおうと思っている人々が、その言葉尻を捕えて陥れ、訴える口実を得ようとしていろいろなことを語りかけてきました。パリサイ人とヘロデ党の者、いつもは反目し合う両者がここでは協力して主イエスに挑戦してきます。神への敵対心において一致できるのが人間の罪の特徴です。 彼らは「カイザル(ローマ皇帝)に税金を納めるべきか、納めるべきでないのか?」という陰険な問いかけを主イエスに投げかけます。ところが主イエスは「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」と見事な答えを出され、彼らは反論できず、むしろ驚嘆したというのです。主イエスの語られた主旨は全てのものは神から来ているので神に返すのは当然である。しかし、この世で生きる限り、納税に示されるようなこの世の権威・権力も明らかに悪いものでない限り、それを受け入れ従うことも大切であるというのです。信仰生活と社会生活と分けて二重の生活を送るのではなく、信仰者として神に対する責任を果たすことの中で同時に人間の社会の仕組みの中でも責任を果たして生きること
メッセージ · 2018/06/25
「あなたにいのちを与え、人生を導いているのはこの私だ。 そのことを認め、与えられた場でしっかりと生き、働き、人生を過ごしなさい。 私こそあなたの人生の主であることを受け入れて、私と良い交わりをもって生きなさい」。 これが神様の真の思いだからです。 この神様の語りかけに耳を開き、応えていくことが私たちの信仰です。 願わくはその信仰によって私たちが、神様が備え与えて下さったこの人生というぶどう園で、神様の栄光を表す良い実を結んで行けますように。
メッセージ · 2018/06/17
主イエスは宮が祈りの家であるからこそ祈りについて2つのことを教えられます。 一つは神を信じ切るということです。 信仰をもって祈るなら山をも動かすことが出来ること。 それは私たちにとって不可能と思われていることも実現すると約束されています。 私たちにそのような力が宿るのではありません。 動かし、実現してくださるのは神です。 しかし、それは私たちの信仰による祈りによるのです。 次に赦しについて書かれています。 山をも動かす信仰による祈りの次に書かれているのは興味深いことです。 しかし、罪の赦し、人を赦すということは山をも動かすことに匹敵するぐらい難しいことと言われているように理解できます。 「主の祈り」にも出て来ますが人の罪を赦すことは自分の罪を赦してもらうことの交換条件ではありません。 しかし主イエスは十字架の贖いによって到底自分の力では赦されるはずの無い私の罪をすでに赦してくださったのです。 この赦され難い自分の罪が赦されていることの恵みと感謝が人を赦す力となってゆくのです。
メッセージ · 2018/06/03
神殿で商売が盛んになされていることに主イエスが憤られ、彼らを追い出されました。主イエスの怒りは当然のことでしたが実はこのことが主イエスの怒りの本質ではありません。神殿は一番奥が至聖所と呼ばれ、祭司、男性、婦人、それぞれの部屋があり、一番外側には異邦人の庭と呼ばれる場所と、それぞれ独立していました。そしてそれらの商売がなされていたのが異邦人の庭であったのです。つまり異邦人は礼拝に参加できないというよりはユダヤ人達の礼拝のための通り道のようになっていたのです。このことを主イエスは「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」べきところ強盗の巣になってしまっていると言われ、憤られたのです。それは神を崇めているようで実は自分たちの都合の良いようにしているだけだと言われたのです。この後、主イエスが十字架につかれ、神殿の幕が上から真っ二つに裂けました。これは神殿における礼拝が終わったことが意味されています。今の時代は教会で礼拝が持たれますが常に教会の主は誰であり、誰を崇めているのかをいつも確認する必要があることを教えられます。
イベント · 2018/06/03
6月3日(日)17:00〜 「オンギジャンイ」は韓国で 1987 年結成されました。 讃美を通して、イエス・キリストの愛を必要とする全ての人々に、主のことをお伝えさせていただこうという願いとビジョンをもって、祈りのうちに集まった若者たち。 厳しいオーデイションの中から選ばれた団員は、音楽的な技術もさることながら、真摯な主への信仰と献身の姿勢をもってその奉仕に当たっています。今まで日本国内の数多くの教会、学校、病院等で奉仕が捧げられています。

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