メッセージ · 2019/05/12
今日は「母の日」です。 100年ほど前にフィラデルフィアというアメリカの町にアンナ・ジャービスさんという女の子がいたのですが彼女のお母さんが亡くなってしまいました。 アンナさんは自分のことを愛してくれたお母さんが亡くなったことを深く悲しみました。 そしてこんなに自分を愛してくれたお母さんに感謝も恩返しも出来ないことをとても残念に思い、お母さんへの感謝のしるしとして白いカーネーションを教会で飾るようになったのが始まりです。 人との別れは悲しいことです。 その人との関係が無くなるわけですから孤独感が襲います。 世の中に大勢の人がいるといっても私たちは限られた人とのつながりの中で生きているわけですのでそれが無くなった時に大きなショックを受けます。 特にその関係が親しく、良い者であればあるほど辛いものとなります。 今日の箇所はこれから主イエス・キリストが十字架におかかりになる前日に語られた告別説教と言われています。 イエス・キリストが十字架に架けられ、死なれる事によって生じる一時的な悲しみ、寂しさ、無力感、弱さは、やがて来て下さる聖霊によって与えられるいつまでも変わらない喜びによって補われ…

メッセージ · 2019/05/05
教会とはキリスト者の集まり、共同体です。キリストのからだとも言います。 からだとして機能するためには物を倉庫にしまいこむようにただ置いてあるだけでは何も起きません。 どんなにきれいに整理しておいてあっても機能しません。 互いに繋がり、絆がありしかも一致している必要があります。 そうやって一致と絆を深めてゆくことは交わりと呼ばれます。 交わりとは一緒にお茶を飲んだり、おしゃべりすることだけではありません。それは交わりということのごく一部の意味です。 交わりの意味は分かちあう、分け合うということにその本質があります。 喜びを分かちあう、重荷を、分かち合う、嬉しいこと、悲しいことを互いに分け合う、それこそがコイノニアの本質です。 そしてそれは互いの働きかけがなければ動き出しません。 生まれつき自然にそのような交わりによる一致と絆が結べたら良いのですがそれが持てないでここまで私たちは歩んできています。 キリストの十字架によって救われた私たちはいろんな失敗や罪を犯しながらもキリストが与えて下さる恵みとまことによって悔い改め、神の赦しを得ながら少しづつ神との関係、人との関係、人との関係が修正され…

メッセージ · 2019/04/28
「疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」主イエスキリストはわたしたちにこう呼びかけておられます。 この言葉は呼びかけの言葉であり、招きのことばでもあります。 主イエスのところに行くのは何のためかというなら「わたしのくびきを負って、イエス・キリストから学ぶ」ためです。 「くびき」とは牛や馬を2頭、木や鉄の枠を首につなげて一つの動きが出来るようにしたものです。 聖書、特に旧約においては「くびき」とは苦役、重荷、苦しみ、不自由さと言ったように否定的な意味で用いられています。 しかし、主イエスがおっしゃった「私のくびき」は全く逆のものです。 先ず「私の」とあるようにすでにイエス様が負っていてくださるものであるということ。 ですから主イエスのくびきを負うとは逆の言い方をするなら、主イエスに重荷を負っていただくということになります。 キリストのくびきには苦しみや嫌なものを負わせられるといった意味はありません。  主イエスのくびきを負うということは主イエスに私の重荷を負っていただき、主イエスとつながるということです。それは私の人生の様々な重荷を負っていただくだけではありません。

メッセージ · 2019/04/21
すべての人の救いのために主イエス・キリストは十字架にお架かりくださり、よみがえってくださいました。 聖書に「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」(伝道3:11)と、神は、すべての人に神を思い、天国を思う思いを与えられました。 しかし、人間は天国のことを想像できたとしても、それを確信することはできません。 天国があること、死後の世界があることを確実に教えてくださるのは、死から復活されたイエス・キリストの他ありません。 イエスといっしょに十字架につけられた強盗は、その場でイエスから天国を約束していただきました。 死の間際でさえ、信仰を持った者が天国に迎え入れられるなら、イエスと共にこの地上を歩んだ者がイエスのおいでになる天国に行けないことはありません。 創世記に「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった」(創世記5:24)とあります。 神のおられるところ、そこが天国です。 エノクは地上で天国を歩みました。 彼にとって、地上から天に移ることはごく自然なことだったのです。 私たちの歩みもそうでありたいと思います。 死をうちやぶって復活され「見よ。わたしは、世の…

メッセージ · 2019/04/14
ルカによる福音書は、主イエスの十字架の死の場面において、共に十字架につけられた二人の犯罪人に注目しています。 そしてこの二人が、主イエスに対して正反対の態度を取ったことが語られています。 一人は主イエスをののしり、「あなたはキリストではないか。 自分と私たちを救え」と言いました。 もう一人はそれをたしなめて、 「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」と言い、 主イエスに「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言ったのです。 どちらも十字架に架けられているわけですから、一方が善良な者で、もう一方が極悪人だったわけではないでしょう。 しかし十字架につけられつつ 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」 と祈るイエスの姿に、神様の前で何の罪もない方、神を心から父と呼ぶことができ、その父に自分を十字架につける者たちの罪の赦しをも願うことができるまことの神の子を見たのです。

メッセージ · 2019/04/07
「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。」 このパウロの教えは、本当に信仰が強いとはどういうことかを語っています。 本当に信仰が強い人というのは、信仰者らしい立派で品行方正な生活をしているとか、良い行いを沢山している人ではありません。 本当に信仰の強い人とは、人の弱さをになうことができる人です。 そのために、自分の満足を求めることをやめることができる人です。 この「になう」という言葉は「担ぐ、背負う」という意味です。 ルカ福音書では「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(9:23) という主イエスのお言葉にこの言葉が用いられています。… …私たちの信仰が強かろうが弱かろうが、私たちがキリスト者であり得るのは、主イエス・キリストが、私たちの弱さを担って下さっているからです。 キリストが私たちを愛して下さり、私たちの弱さと罪を担って十字架にかかって死んで下さるほどに、私たちと一つになって下さった。 その愛に支えられているのです。

メッセージ · 2019/03/31
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。 (コリント第一12:27)  とあるようにキリスト者は信仰者としての個人の歩みの大切さと共に、いやそれ以上に、つながっているキリストのからだなる教会の歩みと成長が重要であることを教えています。...

メッセージ · 2019/03/24
先月は弟息子、いわゆる放蕩息子の箇所を取り上げましたが今回は兄息子の方を取り上げます。 兄息子はいつものように畑仕事を終えて帰ってくると、行方知れずだった弟息子が戻ってきていて、それを家中で祝っているのを知り、怒りを露わにしました。 それは父親も周りも兄の方が弟より価値があり、そのことが様々な形で表されると思っていたのに、裏切るようなことが起きていることに憤りを覚えたからです。。 私たちも「兄息子の怒りも無理はない」と理解を示すことでしょう。 弟は目に見える形で、体ごと父に背いていますが、兄は、体は留まりつつ、心は同じように父に背き、父のもとから離れ去っているのです。 父は兄息子をなだめ、祝宴に加わるように勧めます。 興味深いのはこの時点では、家(神の国)にいて父(神様)のそばにいるのは弟であり、正義を盾に「あんな奴と一緒にしないでほしい」と言っていた兄は家の外にいるということです。 この後、兄息子が家に入ったか、「それなら俺も家を出て好き勝手に生きる」となったかまでは書かれていません。 ただ父(神)は兄も弟も自分のもとに帰ってきて欲しいのです。 すべての人のための十字架なのです。
メッセージ · 2019/03/17
パウロは、祈りに関して三つのことを訴えています。第一に「祈りなさい」、第二に「祈ってあげなさい」、そして第三に「祈ってもらいなさい」ということです。 第一の「祈りなさい」というのは、自分のために祈るということです。自分のために祈ると言っても自分の願いや願望のみを祈るということとは違います。聖書は「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい」と教えています。祈りによって神様に尋ね、聞き続けること。目指すは祈りが生活の一部になるだけでなく、こんどは生活が祈りになっていくことです。 第二は「祈ってあげなさい」です。これは、「とりなし」のことで、誰か他の人のために、その人になりかわって祈ることです。クリスチャンになって祈りはじめた最初のころは、自分のことしか祈れなかったかもしれません。しかし、だんだんと、自分の家族のことからはじめて、教会の兄弟姉妹のため祈れるようになります。さらに、自分の住む地域のため、日本の、世界のためと祈りの輪をひろげていくことができます。 第三は、「祈ってもらいなさい」です。パウロは「私のために祈ってください」と同労者、教会の兄姉にお願いしました。パウロ自身は…
メッセージ · 2019/03/10
よく「どんなに財産があってもあの世まで持ってゆくことは出来ない」と言われます。 クリスチャン的に言うならどんなに財産があっても天国にまで持ってゆくことは出来ないとなるでしょうか。 ではこの世と天国とは何もつながりが無いのかというならそんなことはありません。 むしろ、今私たちが生きているこの世は、天国、神と共にある永遠のいのちを生きるための備えをする場であると聖書は教えています。 私達の地上における信仰生活の進め方を天国への備えとして見る必要があるのです。 では天国に備えて学んでおくべきことは何でしょうか? 聖書はそれは愛であると言います。 何故、愛なのでしょうか? それは第一に愛することが神を知ることになるからです。 「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」ヨハネ第一4:8 また第二に愛は永遠の世界においても通用するものだからです。 通用するだけでなく豊かな報いを受けることが約束されています。 人生のあらゆる出来事を通して、神様は私達を愛の人に造り替えようとされています。 やがて弱くなり、消えてなくなるもの、滅びるものに驚くほどの時間や精力を費やす私たち…

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