メッセージ · 2018/12/02
今日の聖書の箇所にはマリヤがエリサベツの語った言葉への応答として歌った歌、いわゆる「マリヤの賛歌」が出てきます。 マリヤは「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」と歌い出しました。 冒頭に来ているのは「わがたましいは」ではなくて、「あがめる」という言葉です。 あがめるとはラテン語で「マグニフィカート」という言葉なので、この「マリヤの賛歌」は「マグニフィカート」と呼ばれています。 その意味は「大きくする」です。 「主を大きくする」それが「主をあがめる」の意味なのです。 「主を大きくする」とはどういうことでしょうか?実は主を大きくする、神を大きくすることは不可能なことです。 全知全能なる神様、全ての創造主なる神様は無限で比類無きお方ですので、大きくされる必要など全くないのです。 シンプルな理屈であり、霊的真理ですが、それでも主を大きく出来るとしたら自分が弱く小さなものとなることしかありません。 神様をあがめるためには、自分の小ささ、弱さ、罪深さを認めてへりくだることが必要なのです。 マリヤが「幸いな人」であるのは、神様のみ前で卑しい、ちっぽけな者でしか…
メッセージ · 2018/11/25
年若く、結婚もしていないマリヤにみ使いが「あなたは身ごもり、男の子を産みます。名前をイエスとつけなさい。」と告げました。当然、マリヤは戸惑い、不安になりました。 しかし、すでに高齢ながらも身ごもっていたエリサベツのことをあげながら「神にとって不可能なことはありません。」とのことばをみ使いは宣言しました。 そしてマリヤは「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と応答したのです。 マリヤはここで神は全知全能なるお方であるがゆえに奇跡やしるしを起こすことも出来るという一般的な意味で神を信じたのでしょうか?  実は「神にとって不可能なことはありません。」ということばは原文では「なぜなら、神においては、全ての言葉は不可能ではないからだ」という直訳になります。 つまりマリヤがここで信じて受け入れたのは、神様は何でもできるという一般的な真理ではなくて、神様は語られたみ言葉を必ず実現することができる、それゆえに私に対して語られたみ言葉も必ずその通りに実現して下さるということだったのです。 マリヤはまた「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり…
メッセージ · 2018/11/11
キリスト者にとって信仰の中心は、主イエス・キリストの十字架です。 十字架が私たちの救いであるという信仰は、主イエスこそ、神の子であるという信仰に生きることに他なりません。 しかし、主イエスが神の子であるという信仰の中心は、人間にとって躓きでもあります。 ではそのような躓きを越えて、主イエスこそ真に神の子であるとの信仰はどのようにして与えられるのでしょうか。 確かに、主イエスのお語りになった言葉の中には、含蓄に富んだ、座右の銘にしたいような言葉が幾つもあります。 又、驚くような癒しの御業があります。 しかし、聖書の記述によればどれだけ主イエスの偉大な教えや御業を見ても、そこで、主イエスが神の子だという信仰につながって行ったのではないことが分かります。主イエスが神であるという信仰は、他でもなく、主イエスの十字架の出来事が示される中で起こされています。 十字架は、信仰の中心であると共に、信仰の出発点でもあるのです。
メッセージ · 2018/11/04
キリスト信仰とは主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とが私たちの罪のための、私たちの身代わりとしての苦しみと死であったということ、主イエスは私たちが期待しているような強い者としてではなく、私たちの罪を背負わされ、罪人である私たちが裁かれて絶望の内に死ななければならないはずの十字架の死を引き受けて、その苦しみを嘗め尽くして下さることによって私たちのまことの王、救い主であって下さるのだ、ということを信じることです。 それは、自分が思い描いている救いのイメージにこだわり、こういう救い主なら信じてやる、と言っているのとは正反対のことです。 神による救いは、独り子主イエスが、私たちの罪を背負って、また人間の罪のために引き起こされる悲惨さ、苦しみを余すところなく背負って、十字架のすさまじい苦しみと死とを引き受けて下さったことによって与えられたのです。 生まれつきの私たちは、自分が強い者、立派な者になろうとしています。 それによって自分の人生を切り開き、願いを叶え、充実した人生としようとしています。 そういう思いによって私たちは、自分を救い、人をも救うことのできる強い救い主を待ち望んでいるの……
メッセージ · 2018/10/28
主イエス・キリストはユダヤ議会による不当な裁判で、有罪とされ、最後、十字架で処刑されるようにと総督ピラトのもとに連れてこられました。 ピラト自身は主イエス・キリストは十字架で処刑されるような人ではないことを知っていましたから、過越しの祭りの際に毎年行われている恩赦の機会を利用して主イエス・キリストは恩赦で解放されることを企てました。 そのために恩赦が全く与えられそうにないバラバを引き合いに出したのです。 しかし、現実はピラトの意に反して民衆はイエスを十字架にかけることを求め、イエスは十字架に架けられ、バラバは釈放されました。 このような結果をもたらしたのはピラトの日和見的な判断とすぐに付和雷同的に動いてしまう群衆の浅薄な意志によるものですが、これらのことはすでに旧約聖書において預言されていました。 ピラトや群集が特別に悪い者ということはありません。 私達と同じ普通の人です。 その普通の人の持っている普通の罪がイエス・キリストを十字架につけたのです。 そこに私達すべてが持っている罪の恐ろしさと重さがあります。 そのことをピラトや群集は教えてくれていると言えるで
メッセージ · 2018/10/21
主イエスが捕えられた時、ペテロを始めとする弟子たちは皆、蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまいました。 今日の箇所は、キリストの受難、十字架、復活という流れの中におかれています。 この前に大祭司の下に「お前は神の子、救い主か?」と尋問を受けて、はっきりと主イエスは「わたしは、それです」と宣言され、そして十字架の刑へと進んでゆきます。 つまり、主イエスのみ心のうちに十字架による救いのわざが進められていき、復活をもって完成をみるのです。 ここにこそペテロの救いがあるのです。 ペテロは後悔して反省して激しく泣いたから救われたのではありません。 主イエスの十字架と復活によってこそ、ペテロの涙は救いの喜びへと変えられたのです。
メッセージ · 2018/10/07
真夜中に最高議会の議員達が集められる異常な裁判ですが偽証をもってイエス・キリストを断罪しようと思っていた者はその証拠を何一つ見つけることは出来なかったのです。 黙秘の状態を打ち破ったのは「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」という大祭司の問いに対する主イエスの応答でした。 それは、ご自分が「ほむべき方(神)の子、キリスト」ですとおっしゃったということです。 このことばを持って一気にイエス・キリストの十字架刑が決定づけられました。 この主イエスのことばがなければ主イエスの十字架刑はなかったのでは、と思わせるぐらいの衝撃がこのことばには内包されていたのです。 しかし、よく考えるとイエス・キリストの十字架刑は人の悪意、策略によってもたらされたものではなく主イエスの「私は神の子、救い主である」という宣言によって成ったものなのです。 こうして主イエスの十字架による救いの御業は主の御心とご意志をもって進められてゆきました。 今も信じる者のために主イエスは神の右の座において執り成し、やがて再び来られて救いが完成するのです。 このお方を信頼し、従い続けてまいりましょう。
メッセージ · 2018/09/23
ゲッセマネの園で主イエスは祈られた後、ユダの裏切りのしるしである挨拶がわりのキスから始まって、すべての弟子達が逃げ去り、最後は十字架の刑を受けられます。 主イエスは、絶望的な中に置かれていながら十字架の死への道をご自分から、堂々と歩まれました。 その主イエスのお姿の意味をはっきりと語っているのが、49節後半の「しかしこうなったのは聖書のことばが実現するためです。」というみ言葉です。 弟子のユダに裏切られ、一番の弟子ペテロも恐怖に捕えられて弟子としてのあり方を失い、全ての弟子が逃げ去ってしまう、そのような中でまるで強盗でもあるかのように捕えられる、それら全てのことが、聖書の言葉の実現、つまり父である神様のみ心、ご計画によることなのだということを、主イエスははっきりと意識しておられ、そのみ心に従おうとしておられるのです。 この主イエスの絶望的な姿に同情する私たちにも主イエスはおっしゃいます。 「私の悲惨な姿に同情するのではなく、あなた自身の罪に嘆き、自らの罪人としての姿に絶望するが良い。 そして私の十字架の贖いがあなたを根底から支え、救い出したということを信じていきなさい。」と。
メッセージ · 2018/09/16
主イエスが十字架にお架かりになる前にゲッセマネという場所で祈られた様子が記されています。この時、主イエスは「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とおっしゃいました。これは直訳すると「わたしの魂は死ぬほどに悲しんでいる」となります。 主イエスの苦しみは、ご自身の罪によることでは全くありません。主イエスは私たちの全ての罪を背負って、私たちに代って苦しみを受けて下さったのです。十字架につけられ、神に見捨てられて滅ぼされなければならない私たちのために、罪に対する神様の怒りによる裁きを引き受けて下さって、神様に見捨てられる苦しみを受けて下さったのです。主イエスは、私たちの罪のゆえの苦しみを、当の私たち以上に深く苦しんで下さったのです。 ですから「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とおっしゃった主イエスが悲しんでおられたのは、実は私たちの罪の深さであり、罪のすさまじさであったのです。ゲッセマネにおいて主イエスは私のための祈りをささげて下さったのです。この祈りが弱い私達の神様との関係を支えるのです。
メッセージ · 2018/09/09
主イエスはここで弟子たちに、「あなたがたはみなつまずきます」とおっしゃいました。 弟子たちの全員が、主イエスに従って来ることができなくなる、信仰を失ってしまう、とおっしゃられたのです。 主イエスの「あなたがたはみなつまずきます」という言葉に対し、ペテロをはじめ、弟子達は「そんなことは命をかけてもしない」と言いました。 しかし、結果的には主イエスのおっしゃったように弟子達は皆、つまずき、主イエスを見捨てて逃げてしまいました。 〜〜〜〜 主イエスが彼らのつまずき、信仰の挫折を、全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって彼らの罪を赦して下さり、そして復活して永遠の命を生きておられる方として彼らに再び出会い、もう一度彼らをご自分のもとに集め、弟子として、信仰者として新しく立てて下さる 〜〜〜 つまずき倒れた彼らは、今度はもはや自分の信仰における勇気や力、自分に何が出来るか、ということに依り頼んで歩むことはしません。 自分の勇気や力ではなくて、ひとえに、主イエス・キリストの十字架の死と復活による神様の救いの恵みだからです。

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