メッセージ · 2018/10/07
真夜中に最高議会の議員達が集められる異常な裁判ですが偽証をもってイエス・キリストを断罪しようと思っていた者はその証拠を何一つ見つけることは出来なかったのです。 黙秘の状態を打ち破ったのは「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」という大祭司の問いに対する主イエスの応答でした。 それは、ご自分が「ほむべき方(神)の子、キリスト」ですとおっしゃったということです。 このことばを持って一気にイエス・キリストの十字架刑が決定づけられました。 この主イエスのことばがなければ主イエスの十字架刑はなかったのでは、と思わせるぐらいの衝撃がこのことばには内包されていたのです。 しかし、よく考えるとイエス・キリストの十字架刑は人の悪意、策略によってもたらされたものではなく主イエスの「私は神の子、救い主である」という宣言によって成ったものなのです。 こうして主イエスの十字架による救いの御業は主の御心とご意志をもって進められてゆきました。 今も信じる者のために主イエスは神の右の座において執り成し、やがて再び来られて救いが完成するのです。 このお方を信頼し、従い続けてまいりましょう。
メッセージ · 2018/09/23
ゲッセマネの園で主イエスは祈られた後、ユダの裏切りのしるしである挨拶がわりのキスから始まって、すべての弟子達が逃げ去り、最後は十字架の刑を受けられます。 主イエスは、絶望的な中に置かれていながら十字架の死への道をご自分から、堂々と歩まれました。 その主イエスのお姿の意味をはっきりと語っているのが、49節後半の「しかしこうなったのは聖書のことばが実現するためです。」というみ言葉です。 弟子のユダに裏切られ、一番の弟子ペテロも恐怖に捕えられて弟子としてのあり方を失い、全ての弟子が逃げ去ってしまう、そのような中でまるで強盗でもあるかのように捕えられる、それら全てのことが、聖書の言葉の実現、つまり父である神様のみ心、ご計画によることなのだということを、主イエスははっきりと意識しておられ、そのみ心に従おうとしておられるのです。 この主イエスの絶望的な姿に同情する私たちにも主イエスはおっしゃいます。 「私の悲惨な姿に同情するのではなく、あなた自身の罪に嘆き、自らの罪人としての姿に絶望するが良い。 そして私の十字架の贖いがあなたを根底から支え、救い出したということを信じていきなさい。」と。
メッセージ · 2018/09/16
主イエスが十字架にお架かりになる前にゲッセマネという場所で祈られた様子が記されています。この時、主イエスは「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とおっしゃいました。これは直訳すると「わたしの魂は死ぬほどに悲しんでいる」となります。 主イエスの苦しみは、ご自身の罪によることでは全くありません。主イエスは私たちの全ての罪を背負って、私たちに代って苦しみを受けて下さったのです。十字架につけられ、神に見捨てられて滅ぼされなければならない私たちのために、罪に対する神様の怒りによる裁きを引き受けて下さって、神様に見捨てられる苦しみを受けて下さったのです。主イエスは、私たちの罪のゆえの苦しみを、当の私たち以上に深く苦しんで下さったのです。 ですから「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とおっしゃった主イエスが悲しんでおられたのは、実は私たちの罪の深さであり、罪のすさまじさであったのです。ゲッセマネにおいて主イエスは私のための祈りをささげて下さったのです。この祈りが弱い私達の神様との関係を支えるのです。
メッセージ · 2018/09/09
主イエスはここで弟子たちに、「あなたがたはみなつまずきます」とおっしゃいました。 弟子たちの全員が、主イエスに従って来ることができなくなる、信仰を失ってしまう、とおっしゃられたのです。 主イエスの「あなたがたはみなつまずきます」という言葉に対し、ペテロをはじめ、弟子達は「そんなことは命をかけてもしない」と言いました。 しかし、結果的には主イエスのおっしゃったように弟子達は皆、つまずき、主イエスを見捨てて逃げてしまいました。 〜〜〜〜 主イエスが彼らのつまずき、信仰の挫折を、全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって彼らの罪を赦して下さり、そして復活して永遠の命を生きておられる方として彼らに再び出会い、もう一度彼らをご自分のもとに集め、弟子として、信仰者として新しく立てて下さる 〜〜〜 つまずき倒れた彼らは、今度はもはや自分の信仰における勇気や力、自分に何が出来るか、ということに依り頼んで歩むことはしません。 自分の勇気や力ではなくて、ひとえに、主イエス・キリストの十字架の死と復活による神様の救いの恵みだからです。
メッセージ · 2018/09/02
聖餐の意味とは主イエス・キリストの十字架の死によって神様は新しい契約を、主イエスの弟子たちとの間に結んで下さったということであり、主イエスが弟子たちに分け与えて下さったパンと杯はそのことの印です。 聖餐において主の体と血とにあずかりつつ歩むという信仰がもっと深められていきたいと思います。 では信仰が深められるとはどういうことなのでしょうか。 24節で主は「これはわたしの契約の血です。 多くの人のために流されるものです」とおっしゃいました。 主イエスの血は「多くの人のために」流されたということです。 主の体と血とにあずかる信仰が深められるとは、このこと、つまり「多くの人」をより深く意識させられていくことだと言うことができます。 キリストによる救いは自分一人の事柄ではなくて、「多くの人」と共にあずかるものなのです。 主イエスを信じる信仰は、仲間と共に生きる信仰です。 その仲間とは同じ信仰に生きている者同士というだけのことではなくて、主の体と血とに共にあずかっている仲間、主の流された契約の血によって共に神の民とされている仲間です。
メッセージ · 2018/08/19
「この人のしていることも、見方によってはいろいろな問題があるだろう、欠けもあるだろう、しかし、そういうことを指摘し、ケチをつけてこの人を困らせないでやってほしい。何よりもこの人が心を込めて精一杯している奉仕を受け入れてほしい、そしてそれを共に喜んでほしい」それが主イエスの思いなのです。
メッセージ · 2018/08/12
私たちは、主イエスがいつ帰って来られるのかを知ることはできません。また自分の人生に、そしてこの世界に、これから何が起こるのかも知ることはできません。 それらは全て父なる神様が知っておられます。私たちにただ一つ知らされているのは、将来主イエスが帰って来る、その時に、今は隠されている主イエスのご支配があらわになり、私たちの救いが完成するということです。その約束を信じて、忍耐と希望と喜びの中で、目をさまして主の再臨を待ちつつ、主が今私たちに委ねて下さっている務めをしっかりと果していこうではありませんか。
メッセージ · 2018/08/05
「逃げなさい」というのは、自分の力で最後まで戦おうとするな、ということです。  信仰生活を続けてゆく時に多くの場面で忍耐が必要とされます。しかし、私たちの忍耐が救いをもたらすのではないのです。私たちが苦しみと戦って勝利したから救いを獲得するのではないのです。私たちは耐え忍ぼうと逃げようと最終的には神様の憐れみによって救っていただいた者に過ぎないのです。主イエスも教えられた「主の祈り」の中で「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と「自ら闘う」よりも「神に守られる」ことを祈るようにと勧めておられます。信仰者としての勇気と謙遜が求められます。
メッセージ · 2018/07/29
今日のマルコ13章はヨハネ黙示録に比して「小黙示録」とも呼ばれます。主イエスは捕えられ、十字架につけられる直前に、最後の教えとして、世の終わりのことをお語りになりました。  まず世の終わりが近づくとさまざまなしるしが起きるがそれは世の終わりを意味してはいないということ。様々なしるしはどの時代にあっても起きていることであり、それがいつ終りを迎えるかということにはならない。 キリスト者個人や教会にも世の終わりが近づくと様々な苦しみや痛みが起こってくるが、それらは“産みの苦しみ”とも言うべきことで神のみ心のうちにある世の終わりに至るためには通らなければならない道である。 そういう状態にあって信仰者としての証しすることにおいてたじろぐかもしれないが語るべきことばは聖霊が与えてくださることが約束されている。   キリスト者はこの世の終りに主イエス・キリストによる救いが完成することを知っているので忍耐をもって信仰を守りぬくことに大いなる意味と意義がある。  信仰のゆえに受ける苦しみを私たちはそのように受け止めて、最後まで耐え忍ぶ者でありたいと願わされます。
メッセージ · 2018/07/22
律法学者とは神の戒め、律法についての専門家であり、社会が神の御心に沿った歩みが出来るようにアドバイスしたりする者でした。 それゆえに人々から尊敬を受けたりしていたのですが福音書が書かれた当時は自分たちが人よりも尊ばれ、重んじられ、名誉ある者とされることをいつも求めていました。 神が崇められているようで実は自分が崇められることを考えるようになっていたのです。 その根本的な原因は神よりも人の目を意識して歩んでいたからでした。 次にごくわずかな献金を捧げたやもめの話しが出て来ます。 この話は献金は額の問題ではないことを教えているのでもなければ、収入の中の割合、パーセンテージが大切なのだということを教えようとしているのでもありません。 額にしても割合にしても考えられていることの基本には人がどのように評価し、見ているか、つまり人の目ということがあります。 律法学者の姿を反面教師として、そしてやもめの姿から教えられることは人は社会、人間関係の中で生きていますので人の目や評価はどうしても気になるところではありますがそこから自由にされるのはただイエス様に、神様にのみ目が向けられてゆくことなのです。

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