メッセージ · 2018/05/20
信仰とは救い主イエスを信じ、叫び続けることです。もちろんそれは決して、人間が先ず熱心に求めなければ主イエスも呼んで下さらない、ということではありません。主イエスは今、彼をも含めた全ての人々の罪の赦しのために、エルサレムへと、十字架の死へと歩んでおられました。その歩みの中で主イエスは、道端で物乞いをしている彼の目の前を通って行かれたのです。十字架の死によって救いを実現して下さろうとする主イエスは、そのように必ず、苦しみの中にいる私たちのすぐかたわらを通って行かれるのです。それは主イエスに向かって叫び求めるチャンスを与えて下さっているということです。あとは私たちが、主イエスに向かって叫び求めるか求めないかということだけです。私たちの救いのために主が先ず、十字架の死への道を歩んで下さっているのです。
メッセージ · 2018/05/13
多くの人が「謙遜」という言葉が好きですし、「謙遜な人」を好みます。 しかし、自分が謙遜になることには躊躇したり戸惑ったりします。 「私は謙遜な人になりたい」などと言うと、それだけで傲慢な人間に思われてしまうのではと不安に思う人もいると思います。 しかし聖書は「みな互いに謙遜を身に着けなさい。...
メッセージ · 2018/05/06
 今日は、先週一人の人が主イエスの前から悲しみながら立ち去ったという話の続きです。 この人が去って行くのを見送った主イエスは、弟子たちを見回して「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。」とおっしゃいました。 弟子たちはこの言葉を聞いて「驚いた」というのです。  驚く弟子たちに、そして私たちに、主イエスは、「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」とおっしゃいます。 自分の正しさ、立派さという豊かさに頼り、そこに安心を見出そうとしている限り、つまり自分で積み上げた宝に頼っている限り、神の国に入ることは、神様の救いにあずかることは決してできないのです。 神様の救いにあずかり、救いの確信を与えられ、真実の平安を得ることは「人間にできることではない」のです。
メッセージ · 2018/04/29
 今日の箇所は小見出しに「富める青年の話」として紹介されます。彼は裕福なだけではありません。 真面目に人生の真理を求め、社会生活においても律法を忠実に守っている模範的な青年でした。 その青年をしても永遠のいのちを得ること、神の救いに関しては答えを得ることは出来ませんでした。 主イエスこそ、解決の鍵を握っていると思い、教えを請いに主イエスのところにやってきました。 主イエスに教えを請う姿勢も謙遜そのものでした。  しかし、そこで最後に主イエスが出されたことば 「帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。」は 青年にとっては度肝を抜かれるようなことばであり、そのことばに落胆と悲しみを覚えてその場を立ち去るしかありませんでした。 絶望のうちに彼は主イエスのもとを立ち去ったのです。 主イエスは何故そのようなことをおっしゃったのでしょうか? 鍵になるのは主イエスが彼を見つめて、 「いつくしんで」言われたということです。
メッセージ · 2018/04/22
 どのような者が神の国に入るのでしょうか?  主イエスは「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」とおっしゃいました。 「子どものように」ということが鍵になりますがそれはどういう意味でしょうか? 聖書は子どももまた罪があると教えています。疑問を持つことなく受け入れるということでもありません。 一方的に神の恵みと祝福を受けるしかない者であることを認めることです。 理由や条件無しで神が私を愛して下さっていることを喜べるということです。 救われたのはただ私に対する神の愛のゆえです。
メッセージ · 2018/04/15
「つまずく」とは信仰の挫折、信仰を失ってしまうことを意味しています。 主イエスを信じている一人の信仰者をつまずかせ、信仰を失わせてしまうことは、恐ろしい罪なのだと警告されているのです。 自分がつまずいてしまうことを引き起こすものがあれば、たとえそれが片手、片足、片目というように自分の体の大事な一部であっても切り捨てなさいと主イエスはおっしゃいます。 手、足、目が無くなれば不自由になります。すると自らの力によるのでなくむしろお世話をしてもらわなければならなくなります。 その結果、ただ神の恵みと憐れみに活かされているということに気付くようになるのです。 それが主イエス・キリストのいのちに生きる道となります。
メッセージ · 2018/04/08
キリストを信じる前はもちろん、信じた後も自分中心に、自分勝手に生きている私たちです。 神様の真実な眼差しで見ると責められ断罪されてもおかしくない私達です。 しかし神様はそうはなさいませんでした。罪人である私たちのために、御子イエス・キリストを遣わし、その主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。 この主イエスの恵みと愛に満ちたまなざしを感じ取りながら私たちは変えられてゆくのです。 そして主は私達が人のためにするほんの小さなことも喜んで下さるのです。
メッセージ · 2018/04/01
「キリストの復活」は、はじめて聖書の教えを聞く人を驚かせ、またつまずかせるものです。 しかしそれは神様がその人を信仰に導こうとしておられる一つのしるしだと思うのです。 なぜかというと、もし何の抵抗もなくすんなり信じるとするなら「それがキリスト教の教えなのですね。 すてきな教えですね。」というレベルで終わってしまうような気がするのです。...
メッセージ · 2018/03/25
今回は受難週にちなみ「十字架上の七つの言葉」を取り上げます。 これは主イエスが十字架にかけられたとき、十字架の上から語られた七つの言葉のことです。 十字架は他に類をみないほど残酷な処刑でした。 十字架の上では、主イエスは息も絶え絶えでした。 そんな苦しみの中からも、主イエスは七つの短い言葉を語られたのです。 その七つとは次の通りです。 1....
メッセージ · 2018/03/18
 主イエス・キリストは「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」と言われました。この時、弟子達同志で「誰が一番偉いか?」ということで争いが起こっていたのです。...

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