メッセージ · 2020/02/16
弟子たちは「主よ…私たちにも祈りを教えてください」と主イエスに願い出ました。 そして主イエスが教えて下さった祈りはあまりにも有名な主の祈りでした。 では彼らは祈りについて何も知識が無かったのでしょうか? いいえ、イエスの弟子たちは皆ユダヤの人々でした。ユダヤの人々は幼いときから祈りを教えられ、毎日良く祈っていました。 おそらく、現代の私たちの何倍も祈りに時間を費やしていたでしょう。 そんな弟子たちでさえ「主よ…私たちにも祈りを教えてください。」とイエスに願い出ているのです。 彼らは祈りについて学びたかったのです。 「祈りを学びたい」ということは学ぶことによって成長できると考えているということです。 祈りについては結構やってきているからもう教わることはないとは考えなかったのです。 絶えず祈るということは神を知らない人のように四六時中、自分の願いだけをくりかえすだけではなく、神のみわざを求め、神のみこころに触れていくような祈り、本当の執りなし手になる祈りなど祈りを学びながら信仰者として成長を目指すということなのです。 祈りは呼吸のようなものだと言われます。 それは祈りにおいて呼吸のように…

メッセージ · 2020/02/09
パウロによるこの手紙は獄中書簡とも言われます。 彼は普通の人なら決して喜べないような状況の中にありました。 それは場所だけではありません。同じユダヤ人から妬みの故にローマ皇帝に危険人物として訴えられ、このままでは処刑される寸前の状況に置かれていたのです。 人生のどん底、行き詰まりとも思える中に彼はいたのです。 しかし、この手紙は別名「喜びの書簡」とも言われます。この手紙の中に「喜び」「喜ぶ」ということばが13回も出てくることからそう呼ばれています。 なぜ、彼はそんなに喜んでいることができたのでしょうか。 それは彼の心の中に喜びの源があったからです。 ローマの権力はパウロの自由を奪ったかもしれませんが、彼の心の中にある喜びを奪うことはできませんでした。 パウロの肉体を鎖につなぐことはできてもそのあふれる喜びを押しとどめることはできなかったのです。その喜びの源とは次の3つです。 1)キリストが十字架上でいのちを捨てるほどまで神は自分(パウロ)のことを価値あるものと見ていて下さるということ 2)神は自分の人生に確かな目的と意味を与えておられるということ 3)神の愛は絶えることなく自分の中に…

メッセージ · 2020/01/26
1.キリストの選びとは…私たちが誰かの友となる場合、自分のほうからその人を友だちに選びます。 しかし、主イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。 わたしがあなたがたを選んだのである」と言って、主イエスとわたしたちとのつながりの主導権は主イエスにあると言われるのです。 それは私たちの選択が否定されているのではありません。 イエスがまず、わたしたちを選んでくださったので、わたしたちもイエスを選ぶことができたのです。 イエスを選ぶこと自体、イエスが私を選んでくださったからこそ出来ることなのです。 それが分かると私達の心に神の平安と安心が訪れます。 2.使命のために選ばれた…キリストに選ばれていること、それは私たちに安心と安全を与えてくれます。 それと共に使命を与えてくれます。 選びと使命は、いつでも結びついています。 その使命とは何でしょうか。 ぶどうの枝が実を結ぶためにあるように、キリストに選ばれた者たちに与えられている使命もまた、実を結ぶことにあります。 3.神が結ばせて下さる実…では、わたしたちが結ぶべき実とはどんなものでしょうか。 聖書にはすくなくとも三つの実があり…

メッセージ · 2020/01/19
「わたしは この岩の上に わたしの教会を建てます。」この言葉は、教会の基礎を示すみ言葉であり、教会の本質を表していることばです。 1.「わたしの」―ここで言われている「わたし」とはもちろんキリストのことです。ですから「わたしの」教会とは「キリストのもの」としての教会ということです。つまり教会が生まれたのも、教会が続いてゆくのも、そしていつか地上の教会が終わる(神の国の完全な到来)のもすべてキリストによるものということです。 2.「わたしは」― 主イエスは、「わたしが・・・建てます」と語られました。つまりキリストは教会の所有者であると共に建設者でもあるということです。しかし教会の建設者がキリストであるという聖書のことばがあるからと言って、私たちは傍観者であってよいということにはなりません。教会を建て上げるために私たちは用いられますが教会を育て、成長させてくださるのはキリストです。 3.「この岩の上に」―岩(ペトラ)とはペテロのことではありません。これは「あなたは、生ける神の御子キリストです」とペテロが語った信仰告白の続きです。信仰告白とは思いついた言葉ではなく、語るその人自身その…

メッセージ · 2020/01/12
「使徒の働き」は初代教会の記録です。 これを読むと、教会が目覚しい勢いで成長したことが分かります。 神のことばは、「地域」を越え、「人種」を越え、「国境」を越え、「文化」を越えて広まって行き、神のことばが宣べ伝えられるところに教会が建てられ、教会が建てられたところで、さらに神のことばが宣べ伝えられて行きました。 どのようにして教会が増大増加していったのでしょうか? その手掛かりを今日の箇所から学びたいと思います。  成長のために二つの要因があることが分かります。 一つは教会に起こってくる問題によって成長しています。 問題によってというより問題を解決することによって成長しています。 その問題とは食料の配給を巡ってという信仰的というより実際的なものでした。 しかし、その問題を解決するに際し、霊的洞察力によって、その問題の奥深くに教会の一致を妨げるものが潜んでいることを見、対応したということです。 もう一つは問題解決の鍵になるのは「人」ということです。 それも、手際が良いとか速く計算が出来るといった一般的な適性ではなく、霊的資質が問われ、そして選ばれたということです。 さらに言うなら…

メッセージ · 2020/01/05
2020年の指針として「喜びと感謝をもって主に仕える」指針聖句としてテサロニケ第一5:16~18をもって共に福音宣教と教会を建て上げるわざに取り組んでゆきたく願っております。漢字では「常時喜悦、不断祈祷、万事感謝」となります。それぞれに大切なポイントを押さえておきましょう。 喜 び・・いつもニコニコとしていなさいということではありません。誰でも人生の中で否定的な感情に何度も襲われます。しかし最終的には喜びに変えられてゆくということが「いつも喜んでいなさい」ということです。そのためには神の下さった、そして下さる喜びをしっかりと覚えておく必要があります。それは先ず救いの喜びであり、聖霊による喜びです。信仰の錨をイエス・キリストによる救いの喜びに置くなら流されません。 祈 り・・絶えず祈りなさいとは24時間祈り続けることではありません。時間というより祈りで始めた一日を、祈りによって過ごすということを意味しています。祈りの中に生きるとき、逆境の中に恵みを発見し、それを喜び、感謝することができるようになります。「祈り」は「喜び」と「感謝」をつなげるものなのです。祈りが無ければ悲しみや不安の…

メッセージ · 2020/01/01
(今日は要約版がありません。詳細版のPDFはご覧いただけます。)

メッセージ · 2019/12/29
この一年間の主の守りを感謝したいと思います。 今日のみことばからパウロはいつも主のわざに励むようにとコリント教会の人々に勧めています。 聖書は何に基づいて「主のわざに励みなさい」と言っているのでしょうか。 第一にそれはキリストの復活によってです。 もし、キリストの復活がなければ、私たちの救いもなく、将来の復活もありません。 私たちの人生は、この地上にいる時だけのもので、死ねばすべてが終ってしまうのです。 もしそうであったら、私たちにとって最善な生き方は、生きている間に楽しめるだけ楽しむことになってしまいます。 キリストの復活によって現在の歩みが将来につながっていく希望があるのです。 第二に神の愛によってです。 主のわざに励むことは神を愛することの現れです。 そして神を愛することは、神に愛されていることを知っているからこそできることなのです。 第三に神のご計画によってです。 神は、私たちに計画を持っておられます。 神は、その計画の一部を私たちに示してくださっていますが、神の計画の全体は、私たちの思いを超えた大きなもので、私たちはそのご計画によってです。 神は、私たちに計画を持っておられ…

メッセージ · 2019/12/22
(今日は要約版がありません。詳細版のPDFはご覧いただけます。)

メッセージ · 2019/12/15
インマヌエル(神は私たちとともにおられる)これは実に、救い主にふさわしい名前です。この名前の意味することを深く考えたいと思います。 1.はじめから共におられる神・・救い主がどんなに素晴らしいお方であっても、わたしたちの手の届かないところにおられたなら、その愛に支えられ、その恵みに生かされることはありません。救い主は「共におられる神」と呼ばれますが、じつは神はもとから「共におられる神」なのです。神がおられて、私がいるのです。そして人格的な神は人格的に私たちを創造されました。ですから大切なことは神様と私たちとの交わり(つながり)です。 2.罪びとと共におられる神・・人が近づけないほどの罪深さの中にまで救い主は来てくださいました。家畜小屋で産まれ、十字架の死をもって終わる主イエスの地上の生涯は人の罪深さがどれほどのものであっても全ての人が救われるために罪ある者と共にいてくださったということです。 3.永遠まで共におられる神・・救い主はほんの少しだけ私たちを訪れてくださる「訪問者」ではなく、「住人」として、私たちとずっと共にいてくださいます。神はわたしたちのうちに住み、私たちは神のうちに永遠に

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